佐々木とは?/ ディック
[ 1256] 佐々木主浩 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8%E4%B8%BB%E6%B5%A9
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高校時代は、竹田利秋監督のもと、2年の夏からエースとして3季連続甲子園に出場し、3年の春夏は連続ベスト8に進出した。大学時代は、全日本大学野球選手権で2度準優勝(大学2年、3年)している。 1989年、ドラフト1位(野茂英雄の外れ1位)で横浜大洋ホエールズ(現・横浜ベイスターズ)に入団。入団2年目には故障した遠藤一彦の代わりに救援に専念すると、剛速球と落差のあるフォークボールで高い奪三振率を記録し、圧倒的な存在感を持つ抑え投手となった。特に中継ぎの盛田幸妃投手とのコンビは鉄壁を誇り、「横浜の対戦相手は6回終了時にリードされていた場合、逆転は不可能」とまで言われるほどであった。 1999年オフにFA宣言し、メジャーリーグのシアトル・マリナーズに移籍。アメリカンリーグ新人王に輝くなど、ここでも抑え投手として活躍した。しかし、2003年に故障者リスト入りを繰り返すなど不振に陥ると、シーズン終了後、1年間残っていたマリナーズとの契約を破棄して退団。退団理由については、日本で家族と一緒に暮らすためと説明した。 2004年横浜に復帰。多少威力は衰えたとはいえ、数種類に変化するフォークボールは他球団の脅威となっていた。しかし、8月4日の中日戦、8月7日のヤクルト戦で連続して救援に失敗すると、8月8日のヤクルト戦でも土橋勝征、岩村明憲、古田敦也に3連続本塁打を浴びて救援に失敗。開幕前には中日監督・落合博満から挑発されたことと3試合連続の救援失敗となった後、二軍落ちし、そのままシーズンを終えた。 2005年のシーズン開始当初は抑え役を務めていたが、年齢と度重なる怪我から来る球威の衰えは隠せず、登板3試合連続サヨナラ負けを喫するなど打ち込まれ、8試合0勝3敗4セーブ防御率9.53の成績で二軍落ち。その後復帰を目指して調整を続けていたが、調子は上がらず、またその間にクルーンが抑え役に台頭したこともあり、チームの戦力構想外となる。8月7日、現役引退を表明。2日後の9日、故郷でもある仙台のフルキャストスタジアム宮城で行われた巨人戦で事実上の引退登板。本拠地である横浜スタジアムでの引退試合は10月8日(対ヤクルト戦)に行われたが、当初予定されていた佐々木の登板は行われず、セレモニーのみが行われた。セレモニーの挨拶では「生涯野球人であることを誓います」と述べた。 引退後は横浜の親会社であるTBSと日刊スポーツの野球解説者に就任。野球評論家の道を歩むことになった。 1998年に横浜が38年ぶりの日本一になった時の主役とされ、横浜ファンの多くに応援されている。しかし、横浜に在籍した最後の3年間で推定18億円を受け取りながら、故障などで満足に働けなかったことに反感を持っているファンもいる。本塁打王・タイロン・ウッズを佐々木獲得のため手放さざるを得なかったという背景もある。また、救援投手に関する記録の多くを更新し、史上最高の救援投手とも言われている反面、過大評価されがちな救援投手の典型例としてその高給が批判されることも多い。ちなみに、メジャーリーグから復帰した時の契約は、巨人の親会社である日本テレビへの対抗意識からTBSの主導で結ばれたものであり、佐々木の給料もTBSが負担した。 1991年元アイドルの清水香織と結婚。この際、以前交際していた女性とのトラブルが発覚、「球界の琴錦」とも呼ばれた。その後、長女長男が誕生。メジャーリーグに行った頃に起きたすれ違いや現夫人の榎本加奈子との不倫騒動などもあり2005年3月18日離婚。子供2人の親権は佐々木に。その後4月29日に榎本との間に男児(誕生時の体重が1,000gの未熟児)が生まれ、5月9日に再婚していたと新聞で報じられた。 背番号の22は、2月22日午後2時22分生まれに由来するといわれる。後に同じ背番号を付ける事になった阪神タイガースのクローザー・藤川球児は、「佐々木さんと高津(ヤクルト)さんと同じ背番号で光栄です」とのこと。 この背番号は、「宮城県出身の私にとってもうれしい」と自著で触れていた。電話市外局番の「022…」が宮城県に割り振られていることにも言及していた。 1999年にメジャーに移籍するとき、FAの権利を取得すると、シーズン中にも関わらずすぐ手術を行った。球団はこの行動に不信感を持ち、佐々木も残留をにおわすような発言をし、オレを信用できないのかと怒る場面もあった。結局佐々木はFAでメジャーにこの年のオフに移籍したが、これだけの選手なのにあっさりつけていた背番号22を他の選手に球団が渡したのは、佐々木の行動に対する失望や不信感からだとされている。 東北高校の同級生、チームメートに元阪神(現コーチ)の葛西稔がいる(佐々木は葛西を「みーくん」と呼んでいたという)。また高校時代に親しかった同級生の2つ年下の弟には斎藤隆がおり、昔からの顔見知りであった。斎藤はその後高校野球・大学野球・プロ野球(横浜)といずれも佐々木と同じチームに属することになる。 大学進学の際、東京での進学も考えていたが、周囲の勧めもあり東北福祉大学に進学した。特に地元大学への進学を勧めたのは高校時代の恩師、竹田監督であった。(実力・素質は申し分ないが、東京で遊びに走ることを憂慮したらしい。) 東北福祉大学時代は故障続きで、腰の手術を行ったこともあって、ドラフトで横浜大洋ホエールズから1位指名を受けた際、プロ入りには前向きではなかった。しかし球団から説得され入団。当時の監督・須藤豊は「チームで最もいい投手がストッパーを務めるべきである」という考えから遠藤一彦をストッパーに起用していたため、2年目までは佐々木が先発した試合もあった(完投はないが1990年に7試合、1991年に1試合)。 「大魔神」という呼び名は、もともとサンケイスポーツの読売ジャイアンツ担当記者がつけた(敵チームから見て)「悪魔の守護神」を略した「魔神」であった。その後「ハマの大魔神」として定着するが、サンケイスポーツだけは魔神という表記をずっと続け、またグループ企業のニッポン放送では引退後も「魔神」と呼ばれることが多い。 1998年の日本一の時には谷繁元信とは黄金バッテリーとして有名だったが、谷繁が若手時代の時は佐々木のフォークが捕れなかったため別の捕手(市川和正や秋元宏作)に代えてもらったということがある。 「ハマの大魔神」は、この年の新語・流行語大賞としてパイレーツの「だっちゅーの」とともに受賞した。また、当時の政治家も政策の批判に際し、「1回の表から大魔神を登板させるような政策」という表現をしていた。 1998年9月19日には、横浜ベイスターズの優勝を祈願する目的で、横浜駅東口の地下街「ポルタ」内に「ハマの大魔神社」が設置された。同神社には佐々木が得意とするフォークボールの握りを象ったご神体が祭られ、翌1999年1月17日に撤去されるまでの間に約1660万円のお賽銭が集まった。また、フォークボールは落ちるにもかかわらず、合格祈願にこの場所を訪れる受験生も多かったという。撤去前日には佐々木本人も同神社に参拝している。ちなみにお賽銭は全額横浜市社会福祉協議会に寄付されたほか、ご神体は2006年現在仙台市内のお寺に祭られているという。 1999年、シアトル・マリナーズに入団した際、マリナーズのオーナーであった任天堂の山内溥から「メジャーリーグのピカチュウになってほしい」とコメントされた。 佐々木の強い希望(実母の体調が思わしくなかった説もあり)により、引退登板はチームの本拠地である横浜ではなく佐々木の故郷である仙台での巨人戦となった上、対戦相手も佐々木の高校時代からのライバルで親友でもある清原和博になった。佐々木は球団との契約を盾に湘南シーレックスのユニフォームを着用せず、イースタン・リーグでの調整登板もしていない状態であったため、横浜の牛島監督はゲームに影響が出ないよう、普段は救援投手である秦裕二を先発させ、清原の第1打席で佐々木を投入、佐々木が清原を三振に仕留めた後に本来の先発投手門倉健を救援登板させるという継投策を取った。この投手起用について牛島監督は、対戦相手であった巨人の堀内監督に「お騒がせして申し訳ない」といった旨のことを試合前に予め謝罪をした。チームがAクラス争いをしている最中に行われたこの引退登板については、公式戦の私物化と批判する意見もあり、チーム内でも野村コーチと福田ヘッドコーチ間で対立が生じたと伝えられる。そのためか、横浜での引退試合は「チームがAクラス(2年後のシーズンの開幕ホーム権に反映)を争っている時に登板して迷惑を掛けるのは良くない」という理由で佐々木が登板を辞退した。 「大魔神」と呼ばれるごついイメージとは裏腹に、チームメートや後輩から慕われており、交友関係は野球界のみならず芸能関係にも幅広い。また、饒舌でサービス精神も旺盛であるが、それゆえか放言、失言も多く、何度か物議を醸してしまったこともある(「野村ヤクルトはスパイ野球をやってるんじゃないか」「バーカ、ターコ」「メジャーではロッカールームでみんなステロイドを打っていた」など)。また、非常に子煩悩でも知られ、前妻との離婚時も子供たちの親権だけは頑として譲らなかったという。 榎本加奈子との再婚に関して世間一般ではマスコミや週刊誌のバッシングの影響によりとても悪いイメージがあるが、実は再婚の真実に関して2006年1月3日にTBS系列で放送された「新春もズバリ言うわよ細木数子2006年大予言&超豪華スポーツ選手問答無用の運命メッタ斬りSP」において細木が「本当の真実は前妻が家から一方的に出て行った。そして前妻の代わりに子供の弁当を毎日作っていた」と発言し、再婚は不倫などが原因ではないことを語った。 2006年3月19日に放送された日本テレビの番組『いつみても波瀾万丈』内で「二日酔いの日も投げていた」と告白。しかし「二日酔いである事をチームメイトが知ってるので、打たれる訳にはいかない」との思いで普段より頑張って投げていたとのことである。 自身の名が「かずひろ(かづひろ)」であり、長男の名が「しょうご」であるのはオリックス・バファローズの清原和博とその長男と同じである。 2004年に日本球団(横浜)に復帰したが、どこの球団が入団交渉権を獲得するかと言われていたその当時、横浜球団はTBSに球団経営権が移った当時で、赤字で財政事情が厳しいTBSに高給取りの佐々木が呼べるのかという噂が流れていたその矢先、TBSで発売した「8時だョ!全員集合」のDVDが想定外の売れ行きで思わぬ収入を得たため、「ドリフが佐々木を呼んできた」と言われた。 大リーグの渡米前の1990年代後半にはニッポン放送ショーアップナイターの横浜戦実況中継の前説番組によくゲストで登場しており、その日の試合の横浜の先発オーダーを佐々木が発表するという恒例の企画があったが、「1番ショート石井、2番センター波留、・・・」と発表していく上で「5番ファースト駒田さん」と唯一年上の駒田には、かなり早口な割にきちんと敬称を付けていた。 引退後TVで自分が努力をしないタイプである事をアピールすることが多い。「フォークは試しに投げたら、たまたま落ちた」「大学の2年間は野球をしていなかった」など枚挙に暇がない。ただし、フォーク習得のきっかけは、意図したものではなく、手の大きさや握力の強さが災いしてカーブが曲がりすぎたことから、アドバイスを受け、即座に習得したという事実である。 中央競馬ではアドマイヤマジンとキャプテンマジン、地方競馬ではミスターフォークという競走馬を所有している。勝負服は「水色・白袖青二本輪・青鋸歯形」。このデザインはアドマイヤマジンの共同所有者であり、親交が深い近藤利一の勝負服に由来している。 「進ぬ!電波少年」での「アフリカ・ヨーロッパ大陸縦断ヒッチハイク」に参加していた朋友の一員である伊藤高史の父である伊藤義博(故人)は佐々木の東北福祉大学野球部時代の監督であると放送で証言していた。 みずしな孝之の漫画「ササキ様に願いを」では自称「ササキ様」で傲慢かつ乱暴なキャラとして登場し、漫画の知名度が上がり、実際の佐々木も「ササキ様」と呼ばれるようになった。 |
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