帝国とは?/ ディック
[ 779] 帝国 - Wikipedia
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多民族・多人種・多宗教を内包しつつも大きな領域を統治する国家。この場合、君主が皇帝とは限らず、王だったり、政体が共和制であることもある。 漢字の「帝国」の原義は皇帝が支配する一定の領域。もっとも、皇帝は天子として天下を支配するのであり、その下で諸侯が国を治める、というのが東アジアにおける伝統的な理念であるため、本来的には「帝国」という言葉は自己矛盾している。ただし、皇帝の統治する領域が限定されていたのは厳然たる事実だった訳で、「帝国」という言葉はそのような現実を如実に表す言葉とも言えよう。 一般的には皇帝が支配する国家のことを指す。また、多数の民族を含む巨大な国家を指す場合もあり、この場合は必ずしも皇帝が支配する国を意味しない。 前者の定義の場合はその国家が自ら「帝国」を自称する場合が多いが、後者の場合は後の時代になってからそう呼ぶようになったり、あるいは比喩的に呼ぶ場合が多い。小国家でありながらその君主が皇帝を自称した第一次・第二次ブルガリア帝国は前者の例であり、君主が「大王」である「アレクサンドロスの帝国」は後者の例である。 「帝国主義」と混同されがちであるが、いわゆる近代「帝国主義」は、「大英帝国」に代表される産業革命による近代化以降の西欧列強を中心とするものであり、政体としては立憲君主主義でありながも、経済的事情や自国の防衛上の観点から他国もしくは他地域に対する領土的野心をもつ「膨張主義」を伴うものである。 古代の帝国は、ある特定の民族を中心にほかの文明や宗教を巻き込み、大きな領土をもつ国である。代表的なものは、アッシリア帝国、アケメネス朝のペルシア帝国、アレクサンドロス大王の帝国やローマ帝国であろう。 古代マケドニア王国のアレクサンドロス大王は、マケドニア、ギリシャ、ペルシア、アフリカ、インドにまたがる大きな帝国を築いた。大王は、異なる民族を一つにまとめ上げようとし、例えば、ペルシャの兵士はマケドニア式の訓練をおこなったり、自らは、ペルシャ式の生活をし、オリエントの女性と結婚し、部下にもオリエントの女性との結婚を奨励したりした。しかし大王の早すぎる死後、帝国は4分割され、東洋と西洋の融合という理想も潰えた。 ローマ帝国は、その後のヨーロッパにおける帝国の基礎・規範となった帝国である。ローマの場合、共和政時代後期からギリシア・北アフリカ・シリアなどを支配し、既に帝国として成立していた。また英語やフランス語などで「帝国」を示す単語の語源となったラテン語の「Imperium(インペリウム)」は軍事指揮権・支配権を意味するものであり、これを有する軍の司令官を「インペラトル」と呼んだのであり、君主制と必ずしも結びついていた訳ではない。近年では、ローマの支配は、「インペラトル」が各地の有力者と保護者−庇護者の関係を結ぶことから始まり、発展していったという解釈がされるようになってきている。 しかし、ユリウス・カエサルがインペラートルの称号を終身のものとして用い、さらに彼の後継者オクタウィアヌスが「インペラトル」や護民官・執政官などの共和政の諸官職を兼任し、元老院から「アウグストゥス(尊厳なる者)」という称号を受けて「市民の第一人者」「元首」となると、体裁としては共和政を保持していたとはいえ、1人のインペラトルに権限が集まる体制となり、「インペラトル」は徐々に君主「皇帝」となっていった。つまりまず先にローマ帝国があり、それを治める君主として「皇帝」が生まれたのである。 ローマ帝国は支配地域にローマ法・ラテン語(東方ではギリシャ語併用)などローマ(ラテン)民族の諸文化を、優れた建築技術を初めとした先進技術と共に行き渡らせ、複数の民族を同化・統合して強大な勢力を作り上げた。その支配は、本土たるイタリアを始め、北アフリカ・ガリア(現フランス)・ブリタニア・イベリア半島・バルカン半島・アナトリア半島・シリア・エジプトに及び、「地中海世界」とも称される文明圏を作り出すことに成功した。更にその最盛期には広大な領土の隅々に至るまで平和と繁栄を齎し、俗に「ローマの平和(パックス・ロマーナ)」とも「人類が最も幸福だった時代」とも評される安定を創出した。 212年にはカラカラ帝によって、帝国内の全自由民にローマ市民権が与えられ、様々な宗教・文化をもつ民族が「ローマ人」として統合されるが、これは結果としてラテン系ローマ人の民族的結束を失わせ、帝国弱体化の遠因となった。3世紀後半になるとローマ帝国の政治的混乱は頂点に達し、インペラトールを名乗る者が同時に何人も出現するような事態となった。この事態を収拾した4世紀の皇帝ディオクレティアヌスは共和政の「元首」の延長であった皇帝を、ササン朝ペルシャ帝国のシャーのような完全な専制君主とすることで帝国の統合を強化しようと試み、自らをドミヌス(主人)と呼ばせた。彼の思想を受け継いだコンスタンティヌス1世は、専制君主制を強化する一方でキリスト教を公認し、自らも改宗することによってキリスト教を帝国の統合の柱に据えようとした。 ここに、東方的な君主制と共和制以来の「インペラトル」、そしてキリスト教の思想が結びつき、「元老院、市民、軍隊の推戴」を受けた「神の代理人」である皇帝が「全世界の主」として統治するという体制が築かれた。この体制はローマ帝国の後継国家である東ローマ帝国にも受け継がれ、さらに発展した。この強固な政教一致体制によって、東ローマ帝国は1453年まで生き続けた。 つまり、この「ローマ帝国」の変遷が、「帝国」にふたつの意味を持たせる事になった訳である。共和政ローマが多数の民族を含む大国家となって「帝国」となり、そして帝政に移行した後、小国家になっても「帝国」を自称し続けたのである。 ヨーロッパでは帝国の支配者を意味する「皇帝」は、このローマ帝国の皇帝に由来している。詳しくは、記事「皇帝」の「ローマ帝国」の欄を参照のこと。 東ローマ帝国は、正式な国号は「ローマ帝国」であり、第4回十字軍の攻撃を受けた1204年まで、ギリシャ人を主役としながらもスラヴ人・アルメニア人などの民族を支配し、正教会を国教とする国家であった(800年のカール大帝の戴冠までは西欧諸国も名目上ながら宗主権下に置いていた。また、1204年以降、滅亡する1453年までは、ギリシャ人のみの小国へ転落)。古代ローマ帝国の継承者としてローマ法や古代末期の体制、そして古代ギリシャ・ローマ文化を基礎としながらも、東西の文化をギリシャ語・正教会・ローマ法で纏め上げて融合させ、古代のローマ帝国とは異なる独自の文明を形成した国家であったといえるだろう。 この国家では皇帝は「元老院と市民、軍隊の推戴を受ける」ことが正統性の証である、という古代ローマ以来の概念と、皇帝は「神の代理人」「全世界の主」「諸王の王」である「アウトクラトール(専制君主)」として統治する、という東方的な考え方が融合した体制を取っていた。これは前述の古代ローマ帝国後期の体制が、4世紀から8世紀までの約400年近くに渡って緩やかに変化しながら作られた体制であり、いつまでが古代ローマ帝国でいつからが中世ローマ帝国、と明確に決めることは出来ない。 この帝国では民族には関係なく正教会の信者で、コンスタンティノポリスにいる皇帝の支配を受け、ギリシャ語を話すものは皆「ローマ人」であり、アルメニア人やノルマン人、改宗したトルコ人など様々な民族が国家の要職に就いていた。イスラム教やユダヤ教にも比較的寛容で、首都・コンスタンティノポリスにはモスクまで作られるほどであった。詳細は東ローマ帝国を参照。 なお、下記のように、1204年の第4回十字軍がコンスタンティノポリスを陥落させて建てたラテン帝国および、東ローマ帝国の皇族達が建てた亡命政権も「帝国」と呼ぶ。 西ヨーロッパ諸国は古代末期から8世紀までは、名目上コンスタンティノポリスにいるローマ皇帝(上記のように、通常「東ローマ皇帝」「ビザンツ皇帝」などと呼ぶ)の権威に服し、各国の王は皇帝の代理として旧西ローマ帝国領を統治するという形態を採っていた。しかし、7世紀以降イスラムやスラヴ人の侵攻によってコンスタンティノポリスの帝国政府の力が弱まり、またローマ教皇とコンスタンディヌーポリ総主教の宗教的対立や、ラテン語圏の西欧とギリシア語圏の東ローマの文化的な対立などから旧東西ローマ帝国の亀裂が深まっていった。そこでローマ教皇はフランク王カールを「ローマ皇帝」に戴冠し、コンスタンティノポリスの皇帝からの独立を図った。これが、カール大帝の「西ローマ帝国」であり、その後継者を名乗る神聖ローマ帝国である。 これらの帝国は、古代ローマ帝国の理念の影響を受けて「キリスト教世界全体を支配する帝国」という理念が打ち出された(勿論これは、もともとコンスタンティノポリスの政府が主張していた理念でもある)。このため、西欧では「皇帝」の称号はドイツの王のみに与えられ、名目的にはフランスやイングランドなどの国王よりも格上とされていた。しかし、実際に神聖ローマ皇帝が支配していたのは最大の時でも現在のドイツ・オーストリア・スイス・チェコ・ベネルクス三国・北イタリア・ブルグント(ブルゴーニュ)などフランス東部・スロベニア・ポーランド西部の戦前までドイツ人地域であったシレジア・プロイセンに限られ、年月を経るにつれて領域はドイツ語圏のみになり、国名も「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」という名前になった。 また、ドイツ国内ではもともとゲルマン人の選挙王制の伝統が残っており、また各地の諸侯の力が強かったため、実際の皇帝権力は弱かった。さらに三十年戦争の後には帝国内の各諸侯領(領邦)に主権が認められたため、帝国の権威が衰退した。このため、フランスの思想家ヴォルテールは「神聖でもなく、ローマでもなく、帝国でもなかった」と酷評している。従来の歴史学における評価では、中央集権化に失敗しドイツ統一を遅らせたとして否定的に捉えるものが主流であったが、近年は帝国の諸制度への研究が進み見直しの論が出てきている[1]。 政体は帝政とは限らない。以下のリストでは、ドイツが帝政で、またイギリス王がインド皇帝を兼任しているが、他は王政か共和政である。 中華人民共和国 - チベット、新疆ウイグル自治区、台湾、日本に対する政策から蔑称として帝国(中華帝国)と呼ぶことがある。ソ連と同様に「赤い帝国」とも。 |
[ 780] 大日本帝国 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B8%9D%E5%9B%BD
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大日本帝国(だいにっぽんていこく、だいにほんていこく、旧字体:大日本帝國)は、1889年(明治22年)大日本帝国憲法発布時から1947年(昭和22年)日本国憲法施行時までの約58年間、天皇が統治する日本が使用していた国号のひとつ。1868年の明治維新から1945年の太平洋戦争の終戦時までの日本そのものを指す事も多い。最盛時には現在の日本国の領土に加え、南樺太、千島列島、朝鮮半島、台湾などを領土としていた他、北東アジアや太平洋にいくつかの委任統治領や租借地を持っていた。 通称では帝国と呼び、また皇国とも称した。日本海海戦での「皇国の興廃この一戦にあり」が有名。もちろん日本や日本国とも称された。 現在「帝国」の文字が公的機関に記されているのは東京都千代田区に所在する日本水準原点標庫のみである。ただし民間では帝国データバンク、帝国劇場、帝国ホテル、帝国書院、帝国制帽、帝国石油のように、「帝国」を使用しているものもある。 2004年に東京地下鉄(東京メトロ)が運営を引き継いだ、かつての営団地下鉄も、運営者の正式名称は帝国の首都を意味する「帝都」を冠した帝都高速度交通営団であった。京王電鉄も同様に、社名変更前は「京王帝都電鉄」(京王電鉄と帝都電鉄が合併した名称)と「帝都」を冠し、警備会社ではテイケイが「帝国警備保障」を、帝人が「帝国人造絹糸」と「帝国」を冠していた。 1945年(昭和20年)8月15日、大東亜戦争(太平洋戦争)でのイギリスやアメリカ、中華民国などの連合国との間の戦闘停止に合意する。そして9月2日午前9時2分、外務大臣重光葵と大本営の参謀総長梅津美治郎が東京湾内に停泊していたアメリカ海軍戦艦ミズーリ上で降伏文書に署名し、大日本帝国は正式に連合国に降伏した。 政府が1946年2月8日に連合国軍最高司令官総司令部に提出した憲法改正要綱では、国名を「大日本帝国」のままにしていたが、2月13日連合国軍最高司令官総司令部のホイットニーなどにより、憲法改正要綱の不受理通知と、GHQ草案が吉田外務大臣、松本委員長らに手交されその草案の仮訳からは国名が日本国となり、1947年(昭和22年)5月3日日本国憲法施行により憲法上は日本国の名称が用いられることとなった。形式的には名称としての大日本帝国は終戦後も憲法施行までは存続する。特定の政治体制はポツダム宣言受諾とともに変更されたとする憲法学説もある(八月革命説参照)。 大日本帝国の国土は、完全な領有権を有する領土のほか、領土に準じる区域として、他国から借り受けた租借地、国際連盟に統治を委任された委任統治区域があった。このほか、行政権および自国民への裁判権を有する一部統治区域があった。 東京以外の首都機能としては、京都が、天皇の所在を示す高御座が京都御所に安置され、即位の礼や大嘗祭が行われていたことから、首都機能の一部を担っていたといえる。また広島は、日清戦争中に天皇の行在所や大本営が置かれ、帝国議会が開かれたので、臨時の首都と言える。なお、太平洋戦争で本土決戦になる場合は天皇と大本営を長野県松代町の地下壕に移す予定であったが、本土決戦前に終戦したため実現しなかった。 領土は完全な領有権を有する区域であり、内地、樺太、台湾、朝鮮からなる。このほか一時遼東半島を領土としたことがあった。各領土の来歴は下記のとおり。 本州・九州・四国: 日本の古来からの領土(東北地方は平安時代以降)。古事記は淡路、対馬、壱岐、隠岐、佐渡と合わせて大八島と呼ぶ。 租借地は領土とは異なり、潜在主権を租貸国が有し、租借期限があり、また在来の住民に日本国籍が与えられない。中国から関東州と一時膠州(青島)を租借した。 西太平洋赤道以北の広い範囲に散在する島々。ドイツ領であったが、第一次世界大戦で占領、1920年同盟及聯合国ト独逸国トノ平和条約(大正8年(1919年)条約第1号)により、国際連盟の委任に基づき統治する委任統治区域とした。国際連盟脱退後は外地として日本領に編入された。 南満洲鉄道(満鉄)の線路両側数十メートル程度の地帯、および駅周辺の市街地や鉱山などからなる。満鉄に関するロシアの権利を1905年ポーツマス条約(日露講和条約)で譲受けた際に、その一部として鉄道附属地における行政権を獲得した。行政権のほか、治外法権に基づき日本人に関する裁判権も有した。1937年、行政権を満洲国に移譲するとともに、治外法権を撤廃した(昭和12年(1937年)条約第15号)。 大日本帝国の国籍を有する者を日本人または帝国臣民といった。帝国憲法では日本臣民と呼ぶ。国籍の要件は国籍法(明治32年(1898年)法律第66号)で規定された。下のいずれに属するかによって法制度上異なる取り扱いを受けることがあった。 内地人には華族、士族、平民の別があり、華族は貴族院議員たる資格を有するなど特殊な地位にあったが、士族と平民の間に差異はなく、法的にも1914年(大正3年)に族籍記載が撤廃された。1947年の戸籍法改正により、これらの別は完全に消滅した。 台湾人は台湾の在来住民である。本島人ともいう。1895年台湾割譲の際に日本国民になった。戸籍法の適用を受けず、民籍という籍を有した。本島人のうち9割が漢族、1割が高砂族である。行政上は日本国との平和条約の発効により日本国籍を喪失したものとして扱われたが、判例上は日本国と中華民国との間の平和条約の発効により日本国籍を喪失したとされている。 朝鮮人は朝鮮の在来住民である。1910年の韓国併合の際に日本国民になった。戸籍法の適用を受けず、民籍という籍を有した。朝鮮人のうち旧大韓帝国の皇族は王公族、一部の両班や韓国併合に功績のあった者は朝鮮貴族に封じられた。これらの人々は1952年、日本国との平和条約の発効により日本国籍を喪失した。 南洋群島の在来住民を島民という。国際連盟の信託統治領であり、正式には大日本帝国国内にはない島民は日本国籍を有せず日本国民ではなかった。島民の大分部はカナカ族であり、他にチャモロ族がいた。 関東州と満鉄附属地の在来住民は当初清国籍、後に中華民国籍を経て、1932年に大日本帝国の後押しにより満州国が建国されたあとは満洲国籍とみなされた。租界の在来住民は清国籍・中華民国籍とみなされた。 大日本帝国は1890年帝国憲法施行に伴い立憲君主国家に移行した。帝国憲法上は国家元首である天皇が統治権全体を掌握する建前であったが(憲法第4条)、実質上は国家の各機関が権限を分掌していた。これは「統治構造の割拠性」といわれる(辻清明)。 統治権に関する天皇の権限は国務大臣の輔弼(補佐)に基づいて行使された(憲法第55条)。内閣は国務大臣で組織され(内閣官制第1条)、帝国憲法上天皇大権とされた権限は原則として内閣の決定に基づいて行われた。 内閣総理大臣は国務大臣の首班であり、重要決定事項を天皇に報告し、その了解に基づいて行政を統制した(内閣官制第2条)。内閣総理大臣の選任方法については、明文の規定はなく、元老(のち重臣)とよばれる有力者たちが内閣総理大臣を選んだ。 天皇の実際の役割は、内閣の決定に従ってこれに形式的な裁可を与えて国家意思を確定することであった。ただし、天皇は単なる傀儡ではなく、当時のイギリス国王など他の立憲君主と同様、政治上の決定に関与していた(伊藤之雄)。天皇の側近には、侍従長や内大臣などがおり、特に内大臣は昭和期に天皇の政治秘書として活動した。その他、皇室の事務については宮内大臣が輔弼した。なお、内大臣と宮内大臣は国務大臣ではなく内閣に関与しない。 立法権は、天皇が帝国議会の協賛(同意)に基づいて行った(憲法第5条)。帝国議会は貴族院・衆議院の二院制であり、貴族院は皇族華族と勅任議員(元官僚など)で組織され、衆議院は公選された議員から組織された(憲法第33 - 35条)。 帝国議会は法律の制定について協賛(同意)する権限を持った(憲法第37条)。国民の権利・義務に関わる事項は原則として法律によらなければ(すなわち帝国議会の同意がなければ)侵害されなかった(憲法第2章)。また、帝国議会は毎年の予算に対しても協賛権を持った(憲法第64条)。予算が不成立の場合は前年度の予算が施行されるが(憲法第71条)、前年度予算では行政が成り立たないため、帝国議会の予算審議が内閣の死命を制することとなり、これにより政党内閣への道が開かれた。ただし、他の立憲諸国と比較すれば、以下の点で議会の権限は弱かった。 教育関係の規定は、国民の権利義務に関わる事項であっても、法律ではなく勅令で定められる慣習があり、帝国議会の協賛は不要であった。 もっとも、これらの事項に関しても政府が自由に裁量できるものではなく、帝国議会の代わりに枢密院の審議を経る必要があった。枢密院は天皇の諮詢(相談)を受けて重要の国務を審議する機関にすぎないが(憲法第56条)、これらの事項に関して事実上の拒否権を有した。枢密院は行政への関与を禁じられたが(枢密院官制第8条)、しばしば政府に干渉した。 司法権は天皇の委任により裁判所が行った(憲法第57条)。民事・刑事の裁判については、大審院を頂点とする通常裁判所が裁判したが(裁判所構成法)、欧州大陸型の司法制度に倣って、行政訴訟は特別の行政裁判所が扱った(憲法第61条、行政裁判法)。 陸海軍の統帥(憲法第10条)は国務大臣の輔弼の外に置かれ、統帥部が担当した(統帥権の独立)。統帥部は陸軍の参謀本部と海軍の軍令部が並立し、戦時に両者は形だけ統合して大本営が置かれた。統帥部は内閣を経ないで天皇に決定を求める帷幄上奏権(いあくじょうそうけん)という特権を有した。陸軍大臣と海軍大臣は、国務大臣であるとともに統帥機関としての地位も有し、やはり帷幄上奏権を行使した他、1907年からは統帥に関する規定を軍令として定める権限を有した(明治40年(1907年)軍令第1号)。 この統帥権の独立によって陸海軍に対するシビリアンコントロール(文民統制)が機能せず、その結果軍部の独走を助長し、国内の混乱及び諸外国との軍事的衝突をいたずらに広める結果になったとする意見もある[1]。 第二次世界大戦中、軍部の使用に便を図り東京のタクシー会社が四社に統合させられ発足した。これら四社大和自動車交通・日本交通・帝都自動車交通・国際自動車の社名は大日本帝国が分割されて使用されたといわれている。東京四社営業委員会を設立し、戦後も業界大手として営業し、タクシーチケット、タクシークーポンの共通化など連携した営業行動をとる。現在でも、東京四社営業委員会に属するタクシー会社4社の通称として「大日本帝国」と呼ぶことがある。 大東文化大学、日本体育大学、帝京大学、国士舘大学の4大学のことをそれぞれの頭文字をとって大日本帝国と呼ぶことがある。 |
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