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正博とは?/ ディック

[ 796] 福田正博 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E7%94%B0%E6%AD%A3%E5%8D%9A

柔らかいボールタッチ、スピードに乗ったドリブルに強みを発揮し、ドリブル突破からのチャンスメイクや自らの得点で大いに観客を沸かせた。
鹿島時代のジーコをして「日本最高の天才プレーヤー」と言わしめ、「ドーハの悲劇」世代の日本代表選手の中では、三浦知良(カズ)に勝るとも劣らない潜在能力の持ち主ともいわれたが、自身のケガなどのため、日本代表では100%その実力を発揮できたとはいえない。
相模工業大学附属高校3年次の1984年には神奈川県選抜の一員として国民体育大会優勝を経験するが、高校選手権は2年連続で県決勝で敗れた。中央大学を経て、1989年に、父が勤めていた縁から日本サッカーリーグ2部の三菱重工業(後に三菱自動車工業へ移管)に入社。三菱重工は前シーズンに2部へ降格していたが、ルーキーながら36得点という圧倒的な力を見せ得点王に輝き、三菱重工を1年で1部に復帰させる原動力となった。
この活躍により1990年には日本代表に選出され、同年7月27日のダイナスティカップの韓国で代表初デビューを飾ると、レギュラーへ定着し(後述)、翌年のキリンカップ優勝に貢献した。
1993年、Jリーグ発足と共に、三菱自動車は「浦和レッドダイヤモンズ」として初年度から新リーグに参加し、福田もレッズのエースストライカーとしてチームを牽引した。
Jリーグ発足後の浦和レッズは成績低迷に苦しんだが、1995年には日本人選手初のJリーグ年間得点王となり、ベストイレブンにも選ばれた。
日本代表の主力選手としてハンス・オフト監督の下でW杯アメリカ大会アジア予選を戦い抜いたものの(代表でのポジションは主にMFだった)、同最終予選のイラク戦の引き分けの結果、W杯初出場を逃した。福田もまた「ドーハの悲劇」で苦杯をなめた1人だった。
長く浦和レッズの中心選手、キャプテンとしてサポーターから愛され、度重なるケガやチームの2部降格などの数々の苦難を乗り越えて選手生活を送ってきたが、2002年のシーズンを最後に、同じく「ドーハの悲劇」を経験したチームメイトであり、元日本代表主将でもあった井原正巳とともに現役を引退した。翌2003年には埼玉スタジアム2002で、5万人以上の観衆を集めて引退試合が行われた。その年に浦和レッズは初タイトルを獲得するのだが、福田はチームタイトルを獲ることができなかった。福田引退関連グッズだけで、1億円以上の売上を記録したといわれる。
現在のサッカー解説者の中で一番多く複数のテレビ・ラジオ局と契約を交わしており、日本代表の海外遠征をはじめとする海外取材がほかの解説者と比較して際立って多い。そのため、「世界を股にかける男」とも呼ばれている。
日本代表に初めて選出した横山兼三監督は俊足のフォワードをウイングバックに起用する方針を採っており、福田はそういった選手のなかで比較的成功したうちの一人である。そのため、時折「元日本代表ディフェンダー」と紹介される場合もある。後にオフト監督下では攻撃的ミッドフィルダー、それ以降は主にフォワードとしてプレーした。
Jリーグ発足初年度の1993年6月9日のカシマサッカースタジアムでの鹿島アントラーズ戦でJリーグでの自身初ゴールとなる先制ゴールを決めたが、福田のゴールにGK土田尚史以外の全選手が福田に集まって祝福したため、ポジションに戻ることを忘れてしまい、プレー再開後わずか8秒で相手FWの黒崎久志(当時比差支)に同点ゴールを許した。このことは、当時の浦和レッズの低迷期の象徴として、現在もテレビ番組などで紹介されることがある。さらに、これ以降浦和レッズ以外の各チームもゴールを祝福する時は、ディフェンス陣は祝福に参加しない、祝福の時間を長くしなくなったといわれている。ちなみに、2007年まで浦和レッズはカシマスタジアムでの鹿島アントラーズ戦ではまだ3勝しか挙げていない。
浦和レッズがJ2降格争いを演じた1999年シーズンの最終節、対サンフレッチェ広島戦では、福田は後半から途中出場し、延長戦でVゴールを決めた。しかし、福田は憮然として表情ひとつ変えず厳しいままで、池田学がVゴールを喜んで抱きついてきたのも振り払った。福田を含む浦和の選手は、延長戦に入った時点で浦和のJ1残留の可能性が消滅したことを知り、その状況でプレイを続けていたのである。ただし、ルーキーの池田にはチームの降格を知らせなかった(池田学の項を参照)。その様子はテレビ中継でも伝えられた。今日でも、そのときのVゴールを「世界で一番悲しいVゴール」として振り返るサッカー・ファンは少なくない。福田自身もこのゴールを「涙のVゴール」と語り[1]、現役引退時の記者会見でも一番印象に残ったシーンにこのゴールを挙げている[2]。
現役最終年である2002年シーズンの第2ステージ、対名古屋グランパスエイト戦での得点が、リーグ戦における現役最後のゴールとなった。試合も2-1で浦和が勝利したが、以後の浦和はリーグ戦に連敗し優勝争いから脱落。決勝まで進んでいたナビスコカップでも鹿島アントラーズに敗れ、福田引退後の2003年にまで及ぶ、公式戦11連敗(引き分け挟まず)13戦勝利無しとなった。その理由として、福田が名古屋に勝利後のヒーローインタビューで「負けられないよ」と発言するつもりが「負けないよ」と言い間違えてしまったことを挙げる浦和レッズサポーターもいる。以後、浦和サポーターは「負けないよ」を忌み言葉(「負けないよ」の呪い)としている。[要出典]
引退した福田の背番号「9」を受け継いだのは永井雄一郎である。しかし、「9」の背番号に染み付いた「ゴールゲッター」「チームの象徴」のイメージがあまりにも強く、当初はFWの選手たちが背番号「9」を引き継ぐのをためらった、とも言われている。
現在でも浦和レッズのサポーターの間では根強い人気があり、なかには「将来は浦和の監督に」という声もある。公式HPによれば福田自身も将来浦和の監督になることを希望しており、2007年6月にJクラブの監督になるために必要なS級ライセンスを取得した。
今となっては想像もつかないが、少年時代は野球と柔道もやっていた(公式HPで少年時代は巨人ファンだったことを明かしている)。だが、柔道に関しては毎年冬に出てくるお汁粉が苦手だったため辞めてしまった。そのお汁粉嫌いの理由としては「こしあんは許せても、つぶあんは許せない」というものである。また、野球に関しては、「続けていたら、今頃は巨人の2番でショートを守っていた」と語ったこともある。
性格はかなり天然であり、アンチファンも多い。しかし本人は「アンチがいるのは一流の証」とむしろ歓迎している節がある。

 

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