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良一とは?/ ディック

[ 1249] 笹川良一 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%B9%E5%B7%9D%E8%89%AF%E4%B8%80

一般には、右翼として、また政財界の黒幕としても知られ日本の首領(ドン)とまで呼ばれた。1974年、米タイム誌のインタビューで「私は世界で一番金持ちのファシストである」と繰り返し自慢している。
笹川自身は自分を「大衆右翼」と位置づけ[1]、大衆運動の合法的組織化に力点を置いて国粋大衆党を結成。また戦争に対して慎重論者であったとともに、東條英機内閣の一部の政策に真っ向から反対していたことも知られている。太平洋戦争で降伏後は、A級戦犯容疑者として収監された巣鴨プリズンにおいて他の戦犯に様々な影響を与えた。
巣鴨プリズン出所後は、モーターボート競走法成立に尽力し、社団法人全国モーターボート競走会連合会(全モ連)の設立に関与。更に財団法人日本船舶振興会を創設し、国内外で社会奉仕活動に邁進した。
称号は箕面市名誉市民。株式取引に長け[2]、個人としては莫大な財力を持っていると見られていたが、私財のほとんどは社会活動に投じており、亡くなったときの遺産額は16億円弱になっていた。
大阪府豊川村(現箕面市)に造り酒屋の息子として生まれる。1925年、豊川村の村会議員に当選して政治活動を始める。芸能事務所経営を経る傍ら株式相場にも手を広げて一財産を作り[3]、飛行機や飛行場を軍に献納して軍人に知己を得た。
その一方で弟を通じて関西浪人会で活動していた藤吉男を支援、1930年には右翼団体・国粋大衆党(後の国粋同盟)を結成し総裁に就任する。部下に児玉誉士夫がいたこともある。ムッソリーニの崇拝者であり、イタリアのファシスト党の制服を似せて私兵に黒シャツを着せていた。
1932年に満州国が建国されると愛新覚羅溥儀との会見に成功し知名度を高めた。なお、「東洋のマタ・ハリ」と呼ばれ一世を風靡した関東軍のスパイ・川島芳子との交際があったと噂されている。本人は川島と親密であることは認めているものの、交際については否定も肯定もしていない。
1939年には単身イタリアに渡ってベニート・ムッソリーニと会見した[4]。1942年に行われた翼賛選挙では非推薦ながら立候補、当選して衆議院議員を一期務めた。この頃には既に重光葵や安岡正篤とも親交があったとされる。
公営競技である競艇事業の利権を一手に握り、1955年に全国モーターボート競走会連合会会長、1962年、日本船舶振興会(日本財団)会長に就任し巨万の富を得る[要出典]。その財力で自民党の有力者のスポンサーとなり、特に岸信介、西尾末広、賀屋興宣、佐藤栄作、福田赳夫らとの仲は良く知られる。
1963年には、原理運動や霊感商法で知られる文鮮明の統一協会の日本支部顧問になる。文と共に国際勝共連合(国際勝共同盟)ともいうWACLの補助組織に多くの右翼団体を入れ、会長となった。また山口組三代目田岡一雄とは酒飲み友達であると公然と話し、暴力団の仲裁役を務めた。総会屋を動かし会社乗っ取りでも勇名を馳せた。
笹川は戦争中、戦犯指定を受けるほどの活動はしていなかったにも関わらず、これ見よがしに大東亜戦争後に連合国批判を繰り返し、1945年(昭和20年)12月11日、A級戦犯容疑者として巣鴨プリズンに収監された[6]。ただし、当初笹川は自らの演出によって戦犯の容疑を受けたと考えていたが、入獄後の尋問の中で、実際の逮捕理由は「超国家主義的、暴力的結社及び愛国的秘密結社の主要人物」(CIS、民間諜報局作成のファイルによる)としてであったことを知る[7]。
笹川は、投獄初日の1945年12月11日から翌年11月まで獄中日記をつけていた。この日記には、巣鴨プリズンの様子やABC級戦犯達の人間像が克明に描かれている。また、日記には彼の信念、日本が親米反共の道を選ぶべきこと、日本同胞を餓死から救わねばならぬこと、世界平和を確立させねばならぬことなどが繰り返し書き付けられている。
この日記によると獄中の笹川は、東條英機らに対してこの戦争が自衛のためのものであったという日本の立場を明確にし、かつ開戦の責任は天皇にはないとはっきり主張せよと説いて、 昭和天皇が戦犯として裁かれることのないようにと心を砕いた。また笹川は獄中から戦犯の劣悪な待遇の改善を要求し、あるいは誤解により戦犯となってしまった人々の釈放を求め、3年後不起訴により釈放された後は戦犯やその家族らへの支援にも力を尽くした[8]。戦勝国批判も戦犯家族支援も当時としては占領軍を刺激する惧れのある大変危険な行為と考えられ、実行する人間はほとんどいなかった[9][10][11]。
一方で、この獄中に於いて同じA級戦犯容疑者として収監されていた岸信介らとも知り合い、戦後の政界・官界に繋がる人脈への構築へと繋がっていく。
後年になるが、『世界』1952年10月号に「一戦犯者」名義で「私達は再軍備の引換え切符ではない」と題する投稿が採用されると、笹川はこの内容に怒り筆者を突き止めようとした。しかし戦犯にもこの投稿の支持者が多く、発行元の岩波書店も筆者を漏らさなかったため、そのまま沙汰止みになったという(のちに加藤哲太郎が筆者と名乗り出た。加藤はBC級戦犯として服役していた当時、笹川と面会したことがあった)。
モーターボート競走に関心を持つきっかけとなったのは、巣鴨プリズンで手にした『ライフ』誌にボート写真が載っているのを見たことであったという[12]。出所から2ヶ月も経たない1949年2月頃から藤や矢次一夫[13]と計らってモーターボート競走法制定について主要政党や関係各省庁、有識者などに働きかけを開始した。競争法は参議院での否決後での衆議院の再可決[14]など紆余曲折を経て成立したが、競艇の主宰をめぐって笹川・矢次[15]らの一派と大野伴睦・福島世根らの一派で分裂状態になるが、最終的に笹川らが競艇主宰の主導権を握ることになった。
1952年に社団法人全国モーターボート競走会連合会(全モ連)の設立に関与、1955年には同連合会の会長に就任した。更に競艇の収益を活用する受け皿組織として1962年に日本船舶振興会(現在の通称は日本財団)を創設し、会長などを務めた[16]。その際、日本船舶振興会のCMに自ら出演。子供たちとの「一日一善」の掛け声や社会奉仕活動の模様が紹介された。
尚、高見山、子供たちと共に「一日一善」等のシーンは1975年から会長を務めた財団法人日本防火協会のCMにも使われた。CM全体のイメージが日本船舶振興会のそれとほぼ共通であったため混同されがちである。ちなみに同協会でCMを流していたのは、笹川の在任期間とほぼ同じ1976年から1994年まで[17]。この時期に小中学生であった年代の者にとって、笹川良一は「一日一善」若しくは「戸締まり用心、火の用心」のおじいさんとして認識されている。ギャンブルによって一家崩壊や自殺者を招いている現状から、あまりにストレートな善行の呼びかけは、かえってマスコミや「リベラル」な知識人から「偽善的」と受け止められることが多かった。
日本船舶振興会の活動によって海外では社会奉仕活動家(フィランスロピスト)として知られ、1978年〜1979年に開催された宇宙科学博覧会協会の総裁も務めた。1982年には国連平和賞を受賞している。
振興会の支援を通して、船舶・造船事業の振興、福祉・国際援助活動などさまざまな社会奉仕活動を推し進めていった。中でも特筆されるのは、WHOの天然痘根絶事業に対する巨額の資金協力(民間団体としては世界一)と、またハンセン病患者の救済である。ハンセン病のワクチン改良にはワクチン接種の第一号被験者となり、(財)笹川記念保健協力財団を作って会長として各国のハンセン病院を慰問して回った。アフリカにおける「緑の革命」プロジェクトでは日本からのODAを補完してアフリカ諸国の食糧増産に貢献した[18]。
振興会の経理は透明で支援を受けるには厳正なチェックが必要であったし、笹川は振興会の会長としての報酬は一切受け取らなかった。だが、その一方で関連団体の多くに笹川一族が役員に就任していた[19]ことは「公私混同」との批判を招くことになった[20]。また振興会の支援が届かない分野には私財を惜しみなく投じたが、その行為はかえって財団の金を好き放題に動かしているのではないかという疑惑を招く一因になった。
笹川は、巣鴨プリズン時代からアメリカに対しては好意的見方をとっていた[21]が、終戦直前に参戦して日本人捕虜をシベリアに連行して使役したソ連には強い批判を隠さなかった。統一協会とはある時期まで協力関係にあり、1963年には、統一協会の日本支部顧問を引き受けたり、同年6月4日の72双合同結婚式にも夫妻で参列もした。統一協会が1968年に結成した反共の政治団体国際勝共連合で、結成時から名誉会長を務めたりもしていたが、文鮮明との関係が悪くなったためか、1972年には「反共運動から手を引く」と勝共連合名誉会長を辞任した。 更に仏教系の新興宗教・辯天宗の信徒総代にもなっている。
笹川は、反共活動や日本船舶振興会の活動を通じて、長きに渡り政界の黒幕として影響力を及ぼしたと見られているが、戦前・戦後を通じて、政財界を資金の源とすることは無かった。政財界に頼るまでも無く株式や競艇の収益で資金を調達できたことに加え、特定の政治家に肩入れすることで却って言動に足枷がついてしまうという考えていた[22]。
笹川自身、反共の立場を取り且つA級戦犯容疑者の一人であったにも関わらず、日中国交回復以後は競艇で得た収益金の一部を中華人民共和国への支援に回すなど中華人民共和国への支援を熱心に行っている。このため中華人民共和国での笹川はVIP待遇だった。1987年から始まった中華人民共和国の医学研修生を日本の大学で受け入れるプロジェクトで来日した中華人民共和国の医学生は、延べ千人にものぼる。また、中華民国の宗教団体である世界紅卍字会を支援した[23]。
生前、新聞やテレビ、雑誌などのマスメディアで大物右翼である笹川良一と関係が深い統一協会、その別働隊だった右翼団体国際勝共連合に関する批判的言説を発表することは、ある種のタブーとなっていたと指摘されている。政財界・右翼団体・暴力団をも動かせる力とTV新聞雑誌の大広告主である笹川の癪に障ることを怖れたためである。しかし統一協会に関しては1992年に合同結婚式に有名タレントが出席した頃より大きく報道されるようになり、笹川自身に関しては1994年に文芸春秋でジャーナリスト加賀孝英が「笹川一族の崩壊」という記事を掲載した頃から徐々にタブーが解かれてきている。
しかし逆に、笹川を擁護することもまた、ある種の偏見を受ける惧れのあることだった。戦後のマスコミや知識人の多くは笹川に対して「右翼の大立者」「政界の黒幕」「名誉心と自己顕示欲のかたまり」など、マイナス・イメージを持っていたため、笹川に好意的な見方を披露すれば、彼らから右翼論者扱いされる危険があった。海外では、黒幕としての評価がある一方、社会奉仕活動家(フィランスロピスト)として高い評価を受けていた。世界各国の要人と交友関係をもっており、笹川と親交のあった人物の中にはカーター元アメリカ大統領、ジョン・ロックフェラーなどもいる[24]。
社会奉仕活動の一環で各種武道団体スポーツ団体への協力も行っていた。剣道、空手では代表も務めた。また一人一派で流派が乱立していた詩吟関係の団体を纏め上げ、日本吟剣詩舞振興会会長を務めている[25]。
生前の「世の為、人の為になる事に全財産を使ってしまふ考へでゐる。[26]」という言葉どおり資産の多くを社会事業につぎ込んで、笹川は1995年7月18日、急性心不全のため死去。享年96。税務署査定による遺産総額は約53億4千万円、ただしほとんどが、団体からの退職金、自宅、山林、非上場会社の株など、換金しづらいものばかりであった。これに対して借入金は約37億5千万円、差し引きすると遺産は約15億9千万円、相続税約7億5千万円で、相続人中、長男と次男は相続放棄し、負債も同時に相続した三男は返済に苦労することになった[27]。 ただし、笹川一族が事実上競艇の利権を世襲しているのが現状であるとの見方もある[要出典]。
笹川陽平(三男 - 日本船舶振興会(通称「日本財団」)会長・社団法人全国モーターボート競走会連合会名誉会長)
糸山英太郎(義理の甥 - 元国会議員で湘南工科大学名誉総長、日本航空エグゼクティブ・アドバイザーなどを務める)
なお、笹川一族と親密とされている企業としては、内外タイムス・日本トーター・岩井証券・研音グループなどがある。
笹川は大変に母親思いであった。笹川記念会館、箕面市箕面及び全国の競艇場、競艇関係の施設に笹川良一の孝子像(こうしぞう)が存在する。これは、笹川良一が59歳のとき、82歳の母親テルを背負って香川県仲多度郡琴平町・金毘羅参りのため、785段の石段を登っている様子を表しているとされる。「母背負い 宮のきざはしかぞえても かぞえつくせぬ母の恩愛」、「世界は一家、人類は皆兄弟」との碑文が刻まれている。
^ 義理の娘婿にあたる糸山英太郎が中山製鋼所の仕手戦で苦境に陥った際には、糸山を援助して何とか事態を乗り切ることに成功している
^ 大阪鉄道の買占めでは恐喝容疑で大阪刑務所に約3年間収監された(ただし、法廷闘争を経て無罪となり釈放されている)
^ この背景には、米ソの冷戦進行が予想以上に早く進展していたためと推測されている。笹川は、東京裁判組以外のA級戦犯としては岸信介、安倍源基、児玉誉士夫らとともに遅くまで収監されていた組であり、方針転換がなければ第2次、第3次あるいはBC級の各裁判で裁かれる予定だった。秦郁彦著の『昭和史の謎を追う 下』(文春文庫)等も参照のこと。
^ 山岡荘八によれば「彼は志願してでも、戦犯にならなければならないと決心」(『破天荒』)したと言われ、入獄にあたっては派手に軍艦マーチを流すなど敢えて戦犯として入獄することを自ら演出していた
^ 笹川家には戦犯や戦犯家族からの膨大な礼状が残されているが、生前の笹川はそれを公表することはなかった
^ それ以前に面木公昭や福島世根らによって競艇の構想があり、彼らは大野伴睦の支援を乞うたが不調に終わっていた
^ 衆議院側で賛成に回っていた日本社会党が、参議院への法案上程後に反対に回ったため。このため藤・矢次らは広川弘禅宅に押しかけて法案の通過を迫っている
^ もっとも草創期には足立正(のち全国モーターボート競走会連合会初代会長)や中島久萬吉などの財界人を表立って擁立し、笹川らは実務を取り仕切っていた
^ 収益を機械工業(特に造船業)振興に振り向ける動きが運輸省内であり、それに対抗する意味合いもあった。事実、競艇の収益の少なからざる部分が笹川のファミリー企業に流れているなど公私混同も問題になっていた[要出典]
^ 笹川の死後は深見東州(学習塾みすず学苑や宗教団体ワールドメイトの経営者)が代わって支援している。深見の父・半田利晴は笹川の知遇を得て皇族の身辺整理などで活躍したことがあり、深見自身も生前から笹川の世話になっていた

 

[ 1250] 服部良一 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%8D%E9%83%A8%E8%89%AF%E4%B8%80

この項目では音楽家について記述しています。彼のトリビュート・アルバムについては服部良一 ?生誕100周年記念トリビュート・アルバム?をご覧ください。
道頓堀のうなぎ料亭「出雲屋」が、太左衛門橋南ぎわ、カフェー赤玉のまん前にある「角屋」というレストランの支店に少年音楽隊を結成した。1923年9月1日、音楽隊の入隊式が行われたその中に服部良一少年がいた。彼の音楽人生がここに始まったのである。奇しくも関東大震災の起こったその日であった。
1907年(明治40年)10月1日、服部良一は大阪の本庄で土人形師の父久吉と母スエの間に生まれた。小学生のころから音楽の才能を発揮したが、学校を卒業後は商人になるためと、昼は働き夜は商業学校に通うという日々を送る。しかしそんな日々に嫌気のさした彼は姉の勧めで、好きな音楽をやりながら給金がもらえる出雲屋少年音楽隊に一番の成績で入隊する。しかしその2年後に、第一次大戦後の不景気もあって音楽隊は解散してしまう。
1926年にラジオ放送用に結成された大阪フィルハーモニック・オーケストラに入団。ここで指揮者を務めていた亡命ウクライナ人の音楽家エマヌエル・メッテルに服部は見いだされ、彼から4年にわたって音楽理論・作曲・指揮の指導を受ける。ちなみにこのころ、朝比奈隆も彼から指導を受けている。オーケストラの傍らジャズ喫茶でピアノを弾いていた。昭和に入ると服部は、レコード会社の仕事をするようになった。1929年(昭和4年)頃、コッカレコードでサクソフォーンと編曲を担当した。そして、タイヘイレコードの専属となった。1931年(昭和6年)頃には大阪コロムビアで街頭演歌師出身の作曲家鳥取春陽のジャズ演歌の編曲の仕事をした。1933年(昭和8年)2月、服部はディック・ミネの助言もあり、上京して菊地博がリーダーを務める人形町のダンスホール「ユニオン」のバンドリーダーにサクソフォン奏者として加わった。翌1934年(昭和9年)2月、東京進出をはかったニットーレコードの音楽監督に就任した。
1936年(昭和11年)にコロムビアの専属作曲家となった。入社第一回作品が淡谷のり子が歌う『おしゃれ娘』だった。やがて、妖艶なソプラノで昭和モダンの哀愁を歌う淡谷のり子が服部の意向を汲みアルトの音域で歌唱した『別れのブルース』で一流の作曲家の仲間入りをはたす。その後ジャズのフィーリングをいかした和製ブルース、タンゴなど一連の和製ポピュラー物を提供。淡谷のり子は『雨のブルース』もヒットさせ「ブルースの女王」と呼ばれた。
その後、霧島昇・渡辺はま子が共演し、中国の抒情を見事に表現した『蘇州夜曲』、モダンの余韻を残す『一杯のコーヒーから』、高峰三枝子が歌った感傷的なブルース調の『湖畔の宿』など、服部メロディーの黄金時代を迎えた。だが、大東亜戦争が始まると服部の音楽個性であるジャズ音楽は敵性音楽として排除された。よく「服部良一は軍歌(戦時歌謡)を1曲も作らなかった」と紹介されるが誤りである。これは服部本人が軍歌作曲に対し消極的であったことや、その類が不得手であったことなど様々な理由から、これといったヒット曲は無く、量も他の作曲家と比べると少ないことから、そう言われるようになった。1944年(昭和19年)、上海に渡り(これは軍歌作曲の依頼から逃げるためだったという説がある)ジャズの活動の場を求めた。李香蘭と上海交響楽団とともに、『夜来香』をシンフォニック・ジャズにした『夜来香幻想曲』を発表した。
第二次世界大戦後は、戦前に実験済みだったブギのリズムを取り入れ(『荒城の月ブギ』を編曲)、笠置シヅ子の『東京ブギウギ』などをヒットさせた。彼女は「ブギの女王」と呼ばれた。服部と笠置のコンビはすでに戦前(1938年)、紙恭輔に招かれ服部が副指揮者、のち総指揮者をつとめた松竹楽劇団時代から始まっていた。笠置の肉体的な躍動溢れる歌唱は、敗戦に打ちひしがれた日本の国民の虚脱感を吹き飛ばす爆発音だった。戦後には息を吹き返した作品もあった。たとえば、二葉あき子が歌った『夜のプラットホーム』(1939年に淡谷のり子が吹込んだが、「出征兵士の士気を殺ぐ」という理由で発禁処分)、霧島昇が歌った『夢去りぬ』がヒットしたのである。ビクターでは灰田勝彦が歌った『東京の屋根の下』など甘く洒落た曲もある。また服部は東宝映画の主題歌でのヒットも多い。戦後の息吹を伝えた『青い山脈』を作曲。東京芸大出身のクラシックの正統派藤山一郎が格調高く溌剌と歌唱し、日本の国民的な流行歌になった。
古賀政男がマンドリン・ギターを基調にした洋楽調の流行歌から邦楽的技巧表現を重視した演歌のスタンスへと変化したのに対し、服部良一は最後まで音楽スタンスを変えることなくジャズのフィーリングやリズムをいかし、和製ブルースの創作など日本のポップスの創始者としての地位を確立した。日本のポップス界隆盛の最大の功労者である。また、日本レコード大賞の創設にも尽力した。
息子に作曲家の服部克久、孫に服部隆之がいる。妹は歌手で服部富子。曾孫にジャニーズJr.の富沢宏順がいる。

 

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