ディックの銀行系キャッシング。 ディックの即日キャッシング、審査甘い、 ディックの信販系キャッシング、消費者金融比較、 ディックの申込情報サイト。
金額  由利  スリー  カーン  受け  提携  自家製  入学  訳さ  新卒  つくり  グリマング  共演  田家  仲間入り  アンヘル  ござい  辰夫  事項 

メアリとは?/ ディック

[ 304] メアリー (スコットランド女王) - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%BC_(%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E5%A5%B3%E7%8E%8B)

複数のページに対して、同一のユーザーによって、書籍などの媒体から文章が無断転載された疑いが指摘されています。このページの現在または過去の版もこれに含まれています。根拠については報告用のページを参照してください。もしあなたが転載元などをご存知でしたら、どうぞ報告用のページまでご一報ください。
著作物からの転載が確認されますと、このページは削除されます。もしこのページの加筆・二次利用を行う場合は、この点を十分にご認識ください。
1542年12月8日、リンリスゴー城でジェームズ5世の第3子として生まれた。12月14日にジェームズ5世が30歳で急死すると、長男と次男が早世していたため、わずか生後6日で王位を継承した。摂政には、ジェームズ2世の曾孫の第2代アラン伯ジェームズ・ハミルトンが就任した。それからイングランド国王ヘンリー8世の要求により、メアリーは当時皇太子だったエドワード6世と婚約させられた。1547年、イングランドの政権を握ったサマセット公エドワード・シーモアの攻撃を受け、迎撃に出たアラン伯が敗れる事態になった。1548年、王母マリーの提案でメアリーはフランスのアンリ2世の元に逃れ、以後フランス宮廷で育てられた。
1558年4月24日、メアリーはアンリ2世の皇太子フランソワと結婚式を挙げた。同年11月17日にジェームズ5世の従妹に当たるエリザベス1世がイングランド女王に即位すると、アンリ2世は「庶子であるエリザベスの王位継承権には疑義があり、メアリーこそ正当なイングランド王位継承権者である」と抗議した。さらに、1559年9月にはフランスとイングランドの講和条約締結の後に、駐仏イングランド大使を招いた祝宴の席で、イングランド王位継承権者であることを示す紋章を発表し、エリザベスを激怒させた。
7月10日にアンリ2世が亡くなると、皇太子がフランソワ2世として即位し、メアリーはフランス王妃となった。この年から翌年にかけてスコットランドではプロテスタントの反乱が起こり、これにイングランドが介入して、フランス海軍は大打撃を受けた。7月6日、エディンバラ条約が結ばれ、フランスのスコットランドへの軍事介入の禁止と、先の紋章の使用禁止が謳われたが、メアリーは実際にはその後もこの紋章を使用し続けた。イングランド国内においても、エリザベスの王位継承に不当性を唱える大貴族がおり、女王の政権は不安定なものであり、メアリーがエリザベスを「庶子」と主張して自らの王位継承権を言い立てることは、エリザベス個人の不興にとどまらず、政権を揺るがす政治的問題であった。
1560年12月5日、フランソワ2世が16歳で病死した。子供ができなかったメアリーは、翌1561年8月20日にスコットランドに帰国した。メアリーは父の庶子で異母兄のマリ伯ジェームズ・ステュアートとウィリアム・メイトランドを政治顧問とした。当時のスコットランドは宗教改革が進み、多くの貴族がプロテスタントに改宗していたが、カトリックの貴族も相当数残っていた。マリ伯とメイトランドはともにプロテスタントであったが、メアリーは宗教の選択には寛容で臨むと宣言し、両派の融和を図った。1562年の夏には、カトリック貴族では最有力のゴードン家がメアリーに反乱を起こした。これはマリ伯により鎮圧された。
メアリーは再婚相手について検討を始めた。候補として名前が挙がったのは、オーストリアのカール大公、スウェーデンのエリク14世、デンマークのフレゼリク2世、フランスのヌムール公などだった。中でも特にメアリが関心を示した相手は、有力なカトリック国スペインの国王フェリペ2世の息子ドン・カルロスであった。しかしいずれの相手とも、政治的な理由によるカトリーヌ・ド・メディシスやエリザベス1世の妨害など、様々な理由から結婚にまで至らなかった。
やがてメアリーは、1565年2月18日に出会ったステュアート家傍系の従弟ダーンリー卿ヘンリーとの結婚を考えるようになるが、これにもマリ伯やエリザベス1世が強硬に反対した。特にエリザベス1世は、メアリーと同じくヘンリー8世の姉マーガレット・テューダーの孫で、イングランドの有力な王位継承権を持つダーンリー卿との結婚によって、メアリーの王位継承権が強化されることを恐れた。そこでダーンリーにすぐさまイングランドに戻るよう命令し、従わないと反逆罪と見なすとして、ダーンリー卿の母マーガレット・ダグラス(マーガレット・テューダーの娘でジェームズ5世の異父妹、エリザベスの従姉)をロンドン塔に幽閉したが、ダーンリー卿は従わなかった。
1565年7月29日、メアリーはダーンリー卿と再婚した。メアリーはヘンリーに対し、王族にしか与えられなかったロス伯、オールバニ公の位を与え、また王位継承もあらためて与えるなどして、多くの貴族の反感を買った。しかし、両親から甘やかされてきたヘンリーの傲慢な性格がわかるにつれて、メアリーの愛情も冷めていった。やがてピエモンテ人の音楽家で、有能で細やかな気づかいをする秘書のダヴィッド・リッチオを寵愛し、重用するようになった。
1565年8月1日、マリ伯がエリザベス1世からの援助を取り付け、1200人の兵力を集めてメアリーに反乱を起こした。メアリーはこの反乱を鎮圧するため、ゴードン家にも恩赦を与えて地位を回復させた。マリ伯の期待していたイングランドからの援軍は現われず、スコットランド南部でボスウェル伯率いるスコットランド軍に敗北し、彼はイングランドに亡命した。
1566年3月9日、ホリールード宮殿で食事をとっているとき、武器を手にしたルースベン・モートンなどの数人の貴族達がリッチオを拉致し、ダーンリー卿の部屋に近い謁見室、しかもメアリーの目前で殺害するという事件が起きた。メアリーは流産の危機を迎えたが、6月19日無事に息子ジェームズ(後のイングランド王兼スコットランド王ジェームズ1世(6世))を出産した。しかしダーンリー卿との仲は冷え切ったままだった。当時のスペイン大使によれば、メアリーにダーンリー卿暗殺を提案した者さえもいたが、メアリーは受け入れなかったという。
その後、メアリーはボスウェル伯に心を寄せるようになった。1567年2月10日、エディンバラのカーク・オ・フィールド教会(現在のエディンバラ大学構内)でダーンリー卿が殺害されているのが発見された。ボスウェル伯はメアリーに結婚を申し込み、その数日後ダンバー城にメアリーを連行し、結婚に踏み切らせ、5月15日に2人は結婚式を挙げた。当時、ダーンリー卿殺害の首謀者はボスウェル伯、共謀者はメアリーであると見られており(実際の証拠はなかったが)、カトリック・プロテスタント双方がこの結婚に反対した。間もなく、反ボスウェル派の貴族たちが軍を起こした。6月15日にメアリーはエディンバラの東のカーバリー・ヒルで反乱軍に投降した。メアリーはロッホリーヴン城に移され、7月26日に廃位させられた。
1568年5月、ロッホリーヴン城を脱走したメアリーは6千人の兵を集めて軍を起こすが、マリ伯の軍に敗れ、イングランドのエリザベス1世の元に逃れた。メアリーはイングランド各地を転々としたが、軟禁状態とは思えないほど自由に近い、引退した老婦人のような静かな生活を送ることを許された。しかし、たびたびイングランド王位継承権者であることを主張し、またエリザベス廃位の陰謀に関係した。1570年にはリドルフィ事件(ロベルト・ディ・リドルフィがたくらんだ事件)、1586年のバビントン事件(カトリックのアンソニー・バビントンがエリザベスの暗殺を狙った事件)などである。バビントン事件の裁判ではメアリーが関与した証拠が提示され、有罪・死刑を言い渡された。エリザベス1世は死刑執行書への署名を渋る様子を見せたが、結局1587年2月8日、フォザリンゲイ城のホールでメアリーは処刑された。この事態を受けて、スペイン王フェリペ2世の無敵艦隊とイングランド海軍とのアルマダの海戦(1588年)に繋がった訳である。
このように目立つ方法でリッチオが殺害されたことから、ダーンリー一派はメアリーの暗殺まで狙っていたという説がある。すでにこの事件の前の1566年2月13日に、イングランド大使のランドルフ卿は本国にこんな報告をしている。
国王(ヘンリー)と父親のレノックスは、スコットランド女王に背いて王位を手に入れようとする計画を進めている。もし計画が実行されればあのリッチオは、国王の了解を得て数日中に殺されるであろう。さらに由々しきことに、私の耳には女王まで暗殺されるという噂まで飛び込んできた。
また、この事件の首謀者はマリ伯だという見方もある。しかし、前年に起こした反乱について心から自分の過ちを後悔しているとして、メアリーは赦免したため、マリ伯はスコットランド帰国が叶い、以前同様メアリーに重用されることになった。
カーク・オ・フィールド教会でのダーンリー卿暗殺事件に関しては、ボスウェル伯が首謀者とするならなぜ、彼ほどの経験豊富で優秀な軍人が、ダーンリー卿1人を殺害するのにわざわざこんな目立つ方法を選んだのかという疑問が生じる。また、ダーンリー卿が自らの即位を目論んで、メアリーをここで暗殺しようと計画していたとする説もある。メアリーがボスウェル伯のダーンリー卿暗殺計画に賛成した手紙も含まれているとされている「小箱の手紙」に関しても、メアリー・ステュアート研究者達の間では、この数枚の手紙をメアリーの直筆とする説には近年では否定的になってきており、偽造されたとする説が優勢になってきている。
メアリーに関しては、同時代の人文学者で歴史家であるジョージ・ブキャナン(1506 - 1582)が書いた文書が知られる。彼は、ダーンリー卿の生前からのメアリーとボスウェル伯との不倫を自分の文書の中で主張している。その一例としてこんな文書がある。1566年の10月16日、メアリーはイングランド国境に近い、エディンバラ南東部のジェドバラという町の付近を荒らし回っている盗賊団について、国境警備指揮官のボスウェル伯と話し合うため、マリ伯他数人の臣下達と共にボスウェル伯のいるハーミテージ城に向かい、そこに2時間足らずの間滞在している。ブキャナンはこの日のこの出来事について、「この時すでに、メアリー女王はボスウェルの愛人で、女王はハーミテージ城ではその名誉と身分にあるまじき恥ずべき行為をおこなった」と文書に書き残している。
しかし、ボスウェル伯はこの8日前にジェドバラの盗賊団と戦い、盗賊団の首領は倒したものの、頭と右肩と左腕に重傷を負っていた。この時、すでに彼は出血多量により意識不明になっていて、助かるかどうか微妙な容態であったという。そのため、もうボスウェル伯は死んでしまったのではないかと考える人々も多かったという。ボスウェル伯は担架で近くのハーミテージ城に運ばれた。この知らせは瞬く間に広がり、スペイン大使はメアリーに深い同情を寄せてこう言っている。「もはやスコットランド女王は頼みの綱を失ってしまった。あれほどの人物はめったにいるものではないというのに。」 しかしこのボスウェル伯の死は誤報だとわかり、周囲の人々は安心したという。
ブキャナンは後にメアリーの敵対者側に寝返っている人物で、メアリーの敵対者達の依頼を受けて、このようなメアリーに関する事実と異なると思われる誹謗文書を多く作成しているため、現在のメアリーに関する悪評は差し引いて考える必要があると思われる。
自分はエリザベス1世とあまりにも親しい関係のように思われていて、カトリックの司祭を頼む事もできないような有様だが、そんな話を聞いて、メアリー女王はもうカトリックの信仰を守らなくなったのだなどと考えてもらっては困ります。
実子のジェームズはカトリック教会に復帰する見込みがないので、イングランド王位継承権をフェリペ2世に譲渡する。
息子のジェームズが自分の死ぬ日までにカトリックにならない場合、自分はイングランドの王位継承権をフェリペ2世に委託する。
この他にもフェリペ2世が、異母弟ドン・フアン・デ・アウストリアに軍勢を率いさせ、スペイン領ネーデルラントからイングランドに侵攻し、メアリーを救出してドン・フアンと結婚させるという計画を、1576年頃に立てていたという説もある。このように、最後までフェリペ2世は、同じカトリックの君主として、メアリーに対して協力的な態度が見られる。フェリペ2世のこのような態度には、フェリペ2世の3人目の妻で、メアリーがフランス王太子妃時代に義妹かつ幼なじみとして大変に親しかったアンリ2世の長女エリザベート・ド・ヴァロワの存在があったと考えられる。フェリペ2世は彼女のために舞踏会を催したり、朗読家に朗読をさせたり、共に遊んだりするなど、仲の良い夫婦だった。
フランスで共に育った2人の揺るぎない友情にかけて、スペインの援助を要請する。自分が改宗するかのような話が流れているのはあくまで見せかけだけの事で、自分は決してカトリックの信仰を捨てるつもりはない。
などという内容の手紙を書き送っている。2人の友情はお互いに嫁いでからもずっと続いていたらしく、エリザベートはダーンリー暗殺に関して、メアリーは無実であると夫に訴えていた可能性があると考えられる。なお、エリザベートは1568年10月3日に死去している。
ウィキメディア・コモンズには、メアリー (スコットランド女王) に関連するマルチメディアがあります。

 

[ 305] メアリー1世 (イングランド女王) - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%BC1%E4%B8%96_(%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E5%A5%B3%E7%8E%8B)

王妃キャサリンは5度の懐妊に失敗していたが、6度目の懐妊で無事メアリーを出産した。 メアリーの名は、叔母サフォーク公爵夫人メアリー王女(ヘンリー7世の末子)にちなんだ名であった。
当初は男児出生を切望していたヘンリー8世も、娘が健康であると知ると、「英国では女子の王位継承を妨げる法はない」として、跡継ぎと見なし、鍾愛した。 実際フランスにはサリカ法のように王女の即位を禁じる法律があったが、英国にはそれがなかった。
しかしヘンリー8世がアン・ブーリンとの再婚のために、キャサリン・オブ・アラゴンと離婚すると、王女および皇太女の地位は剥奪され、庶子となった。 ヘンリー8世はメアリーに「両親の結婚は間違いだった」と認めさせようとしたが、拒否されてしまった。
やがてアン・ブーリンが第2王女エリザベスを出産すると、メアリーに対して臣従を命じたが、メアリーは「妹としては認めるが、王女としては認めない」と返答した。
激怒したアン・ブーリンは、メアリーを強引にエリザベスの侍女におとしめた。アンが王妃の地位にいる間、父ヘンリー8世はエリザベスに会っても、メアリーとの面会は拒否した。
メアリーがヘンリー8世と再会したのは、第3王妃ジェーン・シーモアの時代になってからだった。 1546年、王位継承法が改正され、メアリーは皇太子エドワード(エドワード6世)の次に王位につく資格が与えられた。しかし庶子か王女であるかの判定は、曖昧なままで置かれた。
異母弟のエドワード6世が1553年に15歳で早世すると、ノーサンバランド公ジョン・ダドリーが直前の自分の息子と結婚させたジェーン・グレイを擁立するが、メアリーの身柄拘束に失敗してしまう。メアリーはサフォークで即位を宣言し、ノーサンバランド公は9日後に身柄を拘束されて、大逆罪で処刑された。こうしてメアリーは事実上イングランドで最初の女王となった。この時は、民衆にも歓迎されており、また、メアリーが即位できたのも民衆の蜂起のためである。民衆が蜂起したのは、ヘンリー8世の遺言では王位継承順がエドワード、メアリー、エリザベス(以上ヘンリー8世の子)、レディ・ジェーン(ヘンリーの妹の孫)となっていたにもかかわらず、エドワードの異母姉2人を差し置いてジェーンが指名されたことと、ジョン・ダドリーの傀儡であることが明らかだったためである。
メアリーの即位した時期は、ヘンリー8世およびエドワード6世の治世を経て、脱カトリック的な政治体制を歩み始めていた頃であり、政治の中枢においても国教会や新教に属する者が権限を持っていた。メアリーの反動政治、唐突なカトリック復帰政策は社会に少なからぬ動揺をもたらし、混乱を招くこととなった。
次代の女王エリザベスがイングランド国教会を復活させながらも「中道」(Via Media)政策をとってカトリック弾圧をしなかったことも、メアリーの過激さを印象づける一因となっていると言える。
スペイン王家の血を引くメアリーは、結婚の相手にスペインの王太子フェリペ(神聖ローマ帝国皇帝カール5世の子、後のスペイン王フェリペ2世)を選んだ。しかし、カトリック国であるスペインの王太子との結婚は反対するものが多く、トマス・ワイアットらがケントで蜂起する事態となったが、反乱は失敗しトマスは処刑された。この時も、またこの後起きる反乱もすべてエリザベスを王位につけることを要求している。
メアリーは反対を押し切り、1554年7月20日にフェリペと結婚した。1556年にフェリペはスペインに帰国してフェリペ2世として即位し、1年半後にロンドンに戻ったものの、わずか3ヶ月後には再びスペインに帰国した。このことにより、イングランドはフランスとスペインの戦争に巻き込まれ、フランスに敗れて大陸に有していた唯一の領土カレーを失うことになった。
フェリペ2世との結婚後、懐妊と思われた状況もあったが、想像妊娠であった上、実は卵巣腫瘍が発病していた模様で、妊娠と思われたのはその症状であったと推測されている。
異母妹エリザベスを、母キャサリン・オブ・アラゴンを離婚に追いやった女の娘として、終生憎み続けた。 アン・ブーリンの処刑に至るまで、エリザベスの召使いをさせられていたのも史実である。死の前日に、ようやく自分の後継として妹を指名するほどだった。
メアリー1世は5年余りの在位の後、前述の卵巣腫瘍により1558年11月17日にセント・ジェームズ宮殿で亡くなった。メアリーの命日はその後200年間、圧政から解放された祝日として祝われた。
ウィキメディア・コモンズには、メアリー1世 (イングランド女王) に関連するマルチメディアがあります。

 

[ 306] チェリオメアリー
[引用サイト]  http://www.cakesjun.net/blog/

ここ数年、インターネットでリアルタイムに新製品情報を集められるから Mac 雑誌は買ってなかった。立ち読みはしてたけど、ニュースウォッチ程度ならニュースサイトやブログの流し読みで充分。OS X になってから新規ユーザーの間口が広がって、質の高い情報源がたくさん増えた。ありがたいことです。
インターネット発の情報はブログにしろ PDF にしろ、上から下へどんどんスクロールして眺めるじゃないですか。視界に入ったものはどんどん消えていって、余程のことがない限り読み返さない。インプットした情報をあらかた忘れてしまうのに「これは読んだから知ってる」て意識ばかり強くなって、頭の中に情報が何も残ってないことも珍しくない(自分の場合)。
これが小説や漫画だったら「ストーリー忘れたけど面白かったよね」で、もう一度読めばすむけど、Mac のことは「細かいスペック忘れたけど値段高いよね」じゃ困る。
そろそろマシンの買い換えを検討しなくちゃいかんので、読んだつもりになった気分を追い出す情報収集をしなくては。と思ったのでした。
こうなるとページ丸ごと保存したくなるので、ページを完全な状態で保存する方法を考える。簡単できれいに丸ごと保存できる方法を。
でも、さんまシステムをこれで保存したら、文字の一部を書き出せなかった。スタイルシートか何かが邪魔してるぽい。んー。PDF で全部管理できたらラクだと思ったんだけどな。残念。
それで暇を見つけてはドラマ使用曲の紹介サイトを渡り歩いてるのですが、その最中に無料で楽曲ダウンロードできるサイトを見つけました。
クラシック名曲サウンドライブラリーは音楽を無料ダウンロードできるクラシック解説サイト。ブラウザで聴ける視聴パーツもあるけど、iTunes で聴く方が音質が断然いい。
音源は編集、加工ができる素材としての二次利用もOKだそうです。太っ腹。普通に聞きたい人はポッドキャスト用の RSS を購読すればダウンロードの手間が省けます。のだめでクラシックを聴き始めた人にぜひぜひ。
デジカメの電池が切れてたので携帯電話のカメラで撮っておいた。でもパソコンで見たら、期待したほどきれいに撮れてなくてがっかり。
リアルが慌ただしくて長い一年でした。あと小さいつぶやきを Twitter で発散してるせいで、ブログの更新が少なくなった。下書きのまま放り投げた文章がハードディスクに転がってる。気にしない。
これでフィードの文字化けがなくなる(はず)。RSS の変更、面倒でお手数ですがよろしくお願いします。
発売直後にハードカバーで買った当時は読み進めるのがしんどくて、一度読んだきりになってた小説。30代後半の大人が抱く後悔や未練についての物語だから、10代?20代の学生には実感がなくてあまり面白くないと思う。
主人公の人生や仕事を見続けるうちに、自分のそれについて考えてしまう、鏡のような側面がある。後戻りの出来ない悲しみと閉塞感に覆われる物語なので、楽しい気分転換がしたい人には重たいです。
自分はお店で化粧水買ったら破産するので作り始めたクチなんですが、最近はアトピー性皮膚炎の子供がいるお母さんや、市販の化粧品が肌に合わない人に人気があるらしい。amazon を「手作りコスメ」「手作り化粧品」で検索するとたくさんの本がヒットします。
材料はネットや楽天にある手作りコスメの材料屋さんで購入します。ぴのあは配送早い。マンデイムーンは植物バター(ココアバター、シアバターなど)の種類が豊富。
水と油をつなぎあわせて乳液やクリームをつくる乳化ワックス、水をジェルに固めるキサンタンガム、絹糸を原料にしたシルクパウダーとか科学のにおいがするアイテムがずらり。
スキンケア用のベースオイル(ホホバオイル、スクラワンなど)も合わせると一回の買い物が3000円くらいになりますが、アレルギーが出ない素材だけを選んで化粧品を作れるのが安心。
ただし防腐剤が入ってないので長期保存できません。作ったら1日でも早く使う。材料屋で手に入る防腐剤を使えば3ヵ月くらいもつらしいけど、それだったら市販品では無理なくらいぜいたくに消費するか、少量をこまめに作って新しいのを使う方がいい。
道具は台所用の計量スプーンや割り箸で事足ります。ビーカーや温度計があれば便利だけど、何回か作って慣れたらいらなくなる。手作りコスメのレシピ集に「湯煎でゆっくり?」と書いてある工程を電子レンジですませて手間短縮。
コツをつかんだら30分くらいでクリームを作れるようになりました。当分体に塗る物は自作でいけます。たのしー。

 

戻る

ディックの銀行系キャッシング。 ディックの即日キャッシング、審査甘い、 ディックの信販系キャッシング、消費者金融比較、 ディックの申込情報サイト。
ディックの銀行系キャッシング。 ディックの即日キャッシング、審査甘い、 ディックの信販系キャッシング、消費者金融比較、 ディックの申込情報サイト。