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志村とは?/ ディック

[ 896] 志村喬 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E6%9D%91%E5%96%AC

兵庫県朝来郡生野町生まれ。三菱生野鉱業所の冶金技師の家庭に生まれる。ちなみに祖父は土佐藩主・山内容堂の小姓から250石取りの祐筆に上がり、鳥羽伏見の戦いには隊長として出陣したなど由緒ある家柄であった。1911年に生野尋常小学校に入学、きかん気のガキ大将だったが、その反面6年間通して優等生で過ごし、1917年、旧制神戸一中(現兵庫県立神戸高等学校)に入学、その後父親が宮崎に単身転勤となり、丁度その頃の志村は軽い肺病のため2年間進級が遅れたことから、母や兄弟と共に父のもとに合流し、それに伴い宮崎県立延岡中学校(現宮崎県立延岡高等学校)へ転校する。在学中は英語が得意で、文学に憧れて同人雑誌に加わって詩を寄稿する一方、ボート部に入り校内有数のボート漕ぎの名手として活躍する。同中学校卒業後の1923年に関西大学予科に入学するが、まもなく父が退職したことから学資の援助が得られなくなり、仕方なく夜間の専門部英文科に転ずるとともに大阪市水道局の臨時職員として生計を立てる。
この頃、英文科の講師に劇作家の豊岡佐一郎やシェイクスピア研究家の坪内士行がいたことから演劇熱が芽生えはじめ、大学の演劇研究会に参加し、さらに1928年には豊岡を演出家に頼み、自ら幹部としてアマチュア劇団・七月座を結成する。しかし、芝居に熱中するあまり市役所は欠勤続きでついにはクビとなった。そこで大学も中退して、本格的に役者の道を目指し、七月座のプロ化を図り巡業などをするが、大赤字となり失敗。
大阪に戻ってJOBK(NHK大阪放送局)のラジオ劇に声優として出演したり、厚紙切りなどで食いつないでいたが、それだけではどうしても生活が出来ず、1930年に豊岡の友人で、のちに東宝撮影所長になった森田信義の世話で五月信子の近代座に入り、職業俳優として舞台に出演する。以降は日本各地をはじめ、遠く上海、青島、天津、大連、釜山にまで巡業した。しかし、この頃から同じような芝居が続いて、気持ちや生活態度はすさみ、演技も惰性になっている自分に気付き、巡業先で一座を離れ、再び大阪に戻って、1932年に剣戟の新声劇や翌年に旗揚げした新選座の舞台に立つが、芝居の世界は景気が悪くなる一方で、この頃主流になり始めたトーキー映画に舞台で鍛え上げた実績を生かせるかもと思い、映画俳優の転向を決意、1934年に新興キネマ京都(太秦)撮影所に入社する。
サイレント映画の『恋愛街一丁目』で映画デビューした。当初は台詞の無い役がほとんどだったが、1935年に伊丹万作の第1回トーキー作品『忠治売出す』ではじめて台詞のある役を貰う。それ以降は段々といい役がつき始め、1936年には第一映画で溝口健二の『浪華悲歌』にしたたかな刑事役で出演した。また千恵蔵プロに移籍した伊丹万作に呼ばれた『赤西蠣太』で、現代のサラリーマンのような朴訥とした侍・角又鰭之進を演じてからは、芸達者な脇役として認知され、志村自身も映画開眼した作品と述べている。同年、松田定次に請われてマキノトーキーに移籍、数本に出演したのちにマキノトーキーは解散し、1937年、辻吉朗の口添えで日活京都に移る。
日活時代では1942年までに100本近い作品に出演、特に嵐寛寿郎主演の『右門捕物帳 拾万両秘聞』でのアバタの敬四郎役は、戦前の出演作品の中でも志村の当り役となった。またマキノ雅弘監督のシネオペレッタ『鴛鴦歌合戦』では事実上の主役を演じて得意の歌を披露、その歌の上手さに驚いた共演者のディック・ミネに歌手デビューを勧められたという。しかしこの頃、かつて新劇の舞台に立っていたことから特高警察に京都の太秦署へ連行されて20日間ほど拘留、志村の妻と俳優仲間の月形龍之介が身元引受人となり釈放される。戦後、『わが青春に悔なし』で毒いちごと呼ばれる特高を演じた際、迫力ある演技と高く評価されるが、これはその時の経験を生かしたという。
1942年、日活が大映との合併をきっかけに退社し、興亜映画(松竹太秦撮影所)に入社する。4本の映画に出演するが、しかしその後は仕事がなく、この頃に新劇を追いやられた東野英治郎、小沢栄太郎、殿山泰司らと生活を助け合う。当時、興亜映画は他社に俳優を貸し出しており、志村の恩人で東宝のプロデューサーの森田信義から打診されて志村も東宝の作品に出演した。
特に黒澤明の第1回監督作品『姿三四郎』で老柔術家・村井半助を演じ、それ以来黒澤に重用され、ちなみに黒澤映画への出演は三船敏郎を抜いて最も多く、1965年のモノクロ時代の最終作品『赤ひげ』までの黒澤映画で出演しなかったのは『続姿三四郎』、『素晴らしき日曜日』、『どん底』の3作品のみだった。
1943年に興亜とは契約が残っていたが、東宝に移籍。1945年に今井正監督で朝鮮映画製作の『愛と誓ひ』ロケで朝鮮に渡る。ちなみにこのロケがきっかけでキムチが好物となる。この年の8月に終戦を迎えるが、実弟がこの数週間前に南方で戦病死する不幸に見舞われる。
戦後は黒澤監督の『酔いどれ天使』で主役級に抜擢され、続いて1949年に『野良犬』で三船と組むベテラン刑事役を好演した。この前年の『静かなる決闘』での名演もあって、毎日映画コンクール男優演技賞を受賞する。1952年、『生きる』ではワンマン扱いで主演(この時代の黒澤映画では、この作品のみ三船が出ていない)、癌に侵された市役所員を頬骨が見えるほど減量して演じ、大ヒットする。NYタイムズに「世界一の名優」と絶賛され、黒澤にとっても志村にとっても一世一代の作品となった。
続いて1954年の『七人の侍』では侍達のリーダー勘兵衛役で、お荷物的存在・菊千代を演じる三船と対照を成すダブル主演。それまでの性格俳優的なイメージを一新する沈着豪胆なヒーロー像を打ち立て、『生きる』と並び生涯の代表作とした。その後は脇役として黒澤作品への出演を続け、癖の強い悪役なども演じた。晩年の黒澤映画では『影武者』にも出演している。1961年には黒澤の代理としてベルリン映画祭に出席、多くの欧米の映画人から祝辞を述べられる。
黒澤作品に出演する一方、本多猪四郎監督にも重用され、『ゴジラ』以来怪獣映画・特撮映画にも多く出演、主に重厚な科学者役を演じた。東宝の人気三大怪獣ゴジラ、モスラ、キングギドラのデビュー作には物語重要な人物として出演、特に『ゴジラ』の山根博士役は名演は特撮ファンにとっても伝説的である。後年、本多が演出補佐として参加した『影武者』でも顔を合わせている。
また黒澤作品でもなく特撮映画でもないこの頃の志村の代表作に、初老のプロ野球監督を演じた『男ありて』(1955年)が挙げられる。本作は映画化が危ぶまれていると聞いた志村自身が、映画化実現まで原作を守ろうとするほどの熱の入れようであった。映画化したのちもテレビドラマ化され、志村は映画とテレビでこの主役を演じた。
趣味はさまざまで、学生時代に培ったビリヤードの腕前は中々のもので、また馬術に関しては自分で馬を持ち、遠乗りも障害競技にも参加した。

 

[ 897] 志村けん - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E6%9D%91%E3%81%91%E3%82%93

古くは沢田研二、キャンディーズ、最近ではダチョウ倶楽部、矢崎滋、柄本明、藤山直美、松本人志、金城武など多くの芸能人や制作関係者が志村から大きな影響を受けたと言われる。現代の「日本の喜劇王」と呼ばれることもある。白塗りの殿様から老婆と広い芸域でコントを行うことから「憑依芸人」とも呼ばれている。
志村憲司(芸名の「けん」は父親の名から由来)・和子の三男として東京都北多摩郡東村山町(現在の東村山市)に生まれる。父は元軍人で、戦後は小学校教諭となり教頭まで務めた。
小学校時代、運動会で便をもらしたことがあった。中学校(東村山第二中学校)時代は文化祭でよくコントをしていたという。彼は、所ジョージ(埼玉県所沢市出身)の遠戚とバンドを組んだこともあった。東京都立久留米高等学校中退。中退理由は、卒業間際にドリフの付き人になった際、いかりや長介に強引に東北巡業につきあわされ出席日数が足りなくなってしまったためである(本人の証言であるが、様々なプロフィールでは卒業となっている。一説によれば、遅れて卒業したという)。2007年3月のBlogでは、高校3年当時2月に付き人になり、3月の卒業式には参加したことを述べている。
はじめは由利徹の弟子になろうとした。ついでコント55号かドリフのどちらに弟子入りするか迷ったが、音楽性の面からドリフを選び、1968年にいかりやの家まで押しかけ、玄関前で12時間正座した末、弟子入りしドリフの付き人となる。
付き人(住友建機のコラムである「Power Talk」取材時の本人の証言、及び加藤茶の証言によれば、加藤の付き人であったという)時代、1年余りであっけなく脱走(本人の著書では、社会勉強をするため他の付き人に伝言して辞めたというが、いかりやの許可をもらったわけでないため、やはり脱走である。しかし、『SMAP×SMAP』(フジテレビ系)の「BISTRO SMAP」に出演した際には、この時のことを、いかりやの家に行き、「1年間だけ時間をください。1年経ったら戻ってきます」といかりやに言ったが、当時夫婦喧嘩の最中だったいかりやからは「うるせぇこの野郎」と無視されたとのことである)。戻ってくる時はいかりやの家に行きにくかったので、志村は加藤の家に行って頼み、加藤が個人的にいかりやに口添えし出戻った。幸い、いかりやから「破門」は免れた。その後暫く、加藤の付き人兼加藤家居候となる。無名の付き人だった志村は、運転免許証を持ってないため、当時国民的な人気者の加藤が運転する車の助手席にふんぞりかえったまま加藤の家に帰り、加藤を差し置いて加藤の母親に晩御飯のメニューを頼み晩御飯を用意してもらい、加藤より先にお風呂に入るという大物ぶりを発揮していた。
※当時のドリフは積極的に音楽活動を行っていたため、仲間内では「付き人」ではなく「バンドボーイ」(通称ボーヤ)と呼ばれていた。
1972年、お笑いコンビマックボンボンを結成し、テレビ番組『ぎんぎら!ボンボン!』に出演するも、失敗に終わった(この頃の芸名は「志村健」の表記が多かった。なお「志村健」の芸名は、現在台湾で使用されている)。しかし荒井注の脱退により、ドリフ見習いを経て、1974年、正式にドリフのメンバーに。なお、この時リーダーのいかりやは、荒井やいかりやと同年代の新メンバーの加入を検討していたが、加藤の推薦により若手の志村が起用された。
ドリフ正メンバーになって2年間ほどはギャグが全く受けなくスランプ状態であった(この頃の芸名は「志村ケン」の表記もあった)。しかし、1976年『東村山音頭』が子供に受け、ブレイクした後は、全てのギャグが受け始め、ドリフ一番人気の座を獲得。「お笑い界のドン」への道を突き進む。
『全員集合』の「少年少女合唱隊」のコーナーで『東村山音頭』を毎回歌ったことにより、一躍人気者となる。きっかけは、1976年3月6日の新潟県民会館での公開生放送での同コーナーで、新潟にちなんだ歌では一般的には民謡の『佐渡おけさ』が有名なので、まずこの曲を全員で歌い、その後、ゲストやドリフのメンバーの故郷の歌をそれぞれ歌うという趣向であった。そこで志村は地元の『東村山音頭』を披露することになり、制作段階でリメイクを施して4丁目が完成。これがいいということで、更にリーダーの長介が3丁目を作詞・作曲し、志村自身の作詞・作曲による一丁目が加えられて、この3曲を本番にてまとめて歌った。以後メンバーや番組のスタッフが毎回このコーナーの一番最後にて歌った方がいいということになり、これを行ったことにより段々に人気を増し、遂には各丁目ごとの衣装まで作るまでになり、特に一丁目は毎回様々な面白く派手な衣装で観客や視聴者を笑わせた。
ドリフのコントでは大概がボケ役なので、ボケのイメージが強いが『8時だョ!全員集合』でいかりやがポリープの手術後で声を出せない時に、メインのコントでいかりやの代役としてツッコミ役を演じたこともある。元来マックボンボン時代はツッコミ役であり、『全員集合』の後半コント等でも女性歌手や加藤をボケ役に立て、自らはツッコミ役に回るコントもあった。1980年代後半以降の自らの冠番組でも実際はツッコミ役が相当あり、現在も『バカ殿様』ではダチョウ倶楽部相手にツッコミを入れて落とす事がある。『NHK紅白歌合戦』の応援コーナーでビートたけしとコントを演じた際も、ボケ役はたけしが演じ志村はひたすらツッコんで話を展開させていた。志村の多芸さがうかがい知れる。
この頃、同じ渡辺プロダクション所属の沢田研二とのコント内でのやり取りと息の合ったコンビネーションが絶大な人気と話題を呼ぶ(志村らドリフはその後渡辺プロ子会社の「イザワオフィス」に移籍)。沢田は現在も志村のギャグセンスを高く評価している。
1981年には仲本工事と共に競馬のノミ行為が発覚。謹慎1ヶ月、書類送検されたが、賭けた金額が仲本に比べてはるかに小さかったことから(1万6千円)起訴猶予処分となった。当時の新聞の社会面やトップを飾り、朝日新聞の見出しは『ノミ馬券だョ!全員集合』であった。この事件以降暫く『全員集合』などの出演を見合わせ、当時ドリフターズ全員で出演していた永谷園のふりかけのCMも、志村・仲本を除く3人のみが出演しているバージョンに改められた。
全員集合終了後は、加藤をボケ役、自らを突っ込み役とした番組『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』に出演。『全員集合』を番組終了に追いやった『オレたちひょうきん族』を逆に番組終了に追い込んだ。その後、自身をメイン出演者とした初の冠番組『志村けんの失礼しまぁーす!』(日本テレビ)、『志村けんのだいじょうぶだぁ』(フジテレビ系)、現在も続く『志村けんのバカ殿様』等でドリフメンバー以外との活動が多くなる。 このころから、ドリフとは一線を画す独自のコントスタイルを確立し、第二の人気ピークとなる。
1988年の大晦日には、当時フジテレビアナウンサーであった山中秀樹と共に『デイトライン特別版』のキャスターを担当し注目された。
1996年9月から10月頃、突如として「志村けん死亡説」が流れた。ずっと順調に歩んできたと思われがちな志村だが、死亡説流布の前後にはレギュラー番組がない低迷期があり(アドリブ話芸や天然ボケ系タレントが全盛となったこともある)、テレビで見かけなくなったのが騒動の背景にあると思われる。以下に原因とされるものを列記。
その前後に飲み屋で志村が「俺もうダメかも知れないよ」と言ったこと(しかし、本人が本当に言ったかどうかは定かではない)。
この4つがミックスされて噂となり、志村の故郷・東村山の女子中高生の間から広まったとされる。最初は「死亡か?」という程度だったが、段々エスカレートして「群馬県のゴルフ場で急死した」、「宇都宮のがんセンター(栃木県立がんセンター)で死んだ」、「死んだことは四十九日法要が過ぎてからでないと公表されない」、「今放送している番組は生前に撮り溜めしたもの」等と具体的な内容の噂に発展。栃木県立がんセンターが「志村さんは入院していない」という異例の声明を出し、9月28日には本人がインターホン越しに記者会見し健在をアピールした。インターネットがそれほど発達していなかった当時としては異例にもこの死亡説は全国規模に流れた。
この説は後に誤報であることがわかり、直後に収録された『ドリフ大爆笑』では、加藤に「あ、知ってる、志村けんって死んだってよ」とネタにされ、本人が苦笑しながらつっこんだ。また翌年の『志村けんのバカ殿様』ではお笑いコンビ・猿岩石との「母子コント」で母親役の志村へ「母ちゃんだって、死んでたって噂になってたよ」などギャグにされていた。対する志村は「その頃、『電波少年』で旅をしていたのになんで知ってんだよ。お前らこそウソついていたらしいじゃねーか。」[1]と、やり返していた。
^ 当時『電波』で猿岩石による人気企画「ユーラシア大陸をヒッチハイクで横断」があった。しかし、全てを路面ではなく、政情不安の地域は飛行機で移動していたことが後に判明した。
1999年には映画『鉄道員(ぽっぽや)』に俳優として出演した。お笑い以外は仕事を引き受けない志村だったが、高倉健直々のオファーを断るのも申し訳ない(高倉本人から直接志村に連絡があった)という理由によるもので、その後は映画やドラマに出演しない姿勢を一貫している。
『バカ殿』で共演していた先輩コメディアン東八郎に、「東さんはいい歳になってもなぜ馬鹿な演技ができるのか」と尋ねた時、東から「芸人が本当は利口だと思わせようとしたり、文化人面(づら)したりするようになったらおしまい」と言われた。志村はこの言葉に深く感銘を受け、東に尊敬の念を抱いていたと何度も発言している。なお1990年代半ばあたりまでの志村は非常に照れ屋で、フリートークが苦手だったため、トーク主体のバラエティ番組への出演はほとんどなかった。トークバラエティ番組に出た時は歓迎されたが、やはり突っ込みが主な仕事であった(これは他のドリフメンバーにも共通する特徴であった)。
2001年12月、共演していたタレントで志村の「弟子」的存在だった田代まさしが、男性宅の風呂を覗き見及び覚醒剤所持で逮捕された事に対し、桑野信義と共に「あいつは最低なことをしたのだから芸能界から消えてもらいたい」とコメントした。
2004年12月7日に、東京都三鷹市内の自宅に泥棒が侵入し、時計や宝石類1000万円相当と現金40万円を盗まれる被害に遭った。本人は会見で「ちゃんと仕事して金稼いで下さい」と犯人にコメントし、最後に「だいじょうぶだぁー」と締めた。ペットの犬たちは何故か泥棒に吠えず「番犬にならない」と語っていた。また、ホームセキュリティに加入していたにも関わらず、警備員が駆けつける前に盗難被害に遭ったことも話題となった。
2005年、ビートたけしと組んで一時間半のコント番組を制作。ダチョウ倶楽部やたけし軍団の一部も参加した。番組の最後には志村が三味線、たけしがタップダンスを披露した。
現在では、健康オタク、動物愛好家としても知られ、それに関する番組のレギュラーを持つ。そのためか最近ではお笑いタレントと言うより、コメンテーター色が強くなっている(但し、現在のトーク主流のテレビ番組のあり方については、自説としていくつかの雑誌等でのインタビューで疑問符を投げかけている)。
最近では、志村ファミリーと言うコント集団の団長としても活躍しており、2006年4月からはこれを発展拡大させた形で「志村けん一座」を組織して舞台に進出している(後述)。
酒豪で知られており、クラブで飲んでいる際、ホステスの胸を揉むスケベ親父だと出演者にしばしば暴露されている。ホステスを両脇に座らせ、両手で同時に揉んでいる姿が海亀のようだと評された。
2006年8月7日よりブログを開始した。ブログでは独特の口調で私生活を語っていることが話題になり、急激に人気が上昇している。
タカアンドトシを気に入っている。『志村けんのバカ殿様』でタカアンドトシの2人が来てトシが志村のボケに対して欧米か!?と突っ込んだところ志村はギャグとしてトシを睨み付けた。
この節に雑多な内容が羅列されているので、本文として組み入れるか整理・除去する必要があります。このタグは2008年2月に貼付されました。
ドリフ付き人時代に当時付き合っていた彼女が妊娠し、結婚をしようとしていたが彼女の両親に猛烈に反対され妊娠していた子供は堕ろされ別れさせられた。この時、いかりやに「単独行動するんじゃねーよ!」と叱られている。
「母に子供の顔を見せてやりたい」「人恋しく、人肌恋しい」とブログに載せており、いずれ結婚することは意識しているようである。
自動車の運転免許証を持っていない。ただ、『人気者でいこう!』の企画で教習所で車の運転をしたことがある。ロールス・ロイスを所有している。
芸名の「けん」は、父親の名前「憲司(けんじ)」が由来である。父親は小学校の教師で、厳格な家庭に育った。しかし、志村が中学生の頃自宅前で交通事故に遭って以来認識障害(と思われる状況)となり、志村がドリフ入りを決意した頃は物事の判断がほとんど出来なかったという。志村の爺さんコントは「この時期の父親をモデルにしたもの」と本人は著書で明言している。
母は志村和子(しむら かずこ)。母からは「やっちゃん」(本名が康徳のため)と呼ばれている。氷川きよしの大ファンで、番組の企画でコンサート後の楽屋訪問が実現した際には少女のように喜んでいた。『バカ殿』のコントにも出演したことがある。
笑いのネタは実際に身の周りにある人物や出来事からヒントを得ることがほとんどで、あまり奇想天外なものは自分の感覚には合わないと述べている。そのためか漫画の類はほとんど読まず、週刊誌などでも漫画は読み飛ばすと述べている。
『全員集合』などで披露した、スイカを異常に速く食べる芸は伝説となっている(テレビに映らないスイカの裏側部分は削り取られており、身の部分は薄い。通称「ドリフカット」)。しかし、フジテレビの『めちゃ×2イケてるッ!』での放送内で削られていない通常のスイカでも早食いができることを証明した。
酒とタバコが大好きで、共演者や芸人仲間と一緒に嗜む事が多い。『だいじょうぶだぁ』などのコントに登場する酒は本物を使っている。コント中にタバコを吸っている場面も多く見られた。ドリフ全員がホノルルマラソンに出場した時、志村が途中棄権した後の第一声が「タバコ吸いたい」と言ったほどである。現在愛用しているタバコの銘柄は、アメリカンスピリット・メンソールウルトラライトフィルターである。それ以前には、カールトン・スリム・メンソールを数年間吸っていた。
昔も今も女性にモテる。いしのようこと結婚寸前まで行ったという話は有名。また今まで付き合った人の中には、2年間の同棲の後に内縁関係(事実婚)を主張して財産の半分を持っていった女性もいた(法律上決まりはないが、判例によると同棲期間が長いほど高額な慰謝料が発生する場合がある)。この女性とは結婚も考えていたと直後の記者会見で本人談。『ダウンタウンDX』出演時に高校生の頃から10人くらいと同棲経験がある、とコメントした。
安田美沙子、後藤真希などのお気に入りアイドル数人を携帯電話の待ち受け画面に使用してきた(『ダウンタウンDX』より)。
お笑い以外の番組やCMなどにほとんど出演しないことでも有名であったが、1997年あたりから徐々に他のバラエティ番組へゲスト出演をするようになった。ただし当初は素顔で出演するということが極端に少なく、ほとんどはコント用のかつらにメイクをした姿(変なおじさん、バカ殿等)での出演であった。これは、それまでコント一筋だった志村にとって、バラエティ番組に出演することは勝手が分からず気恥ずかしいという気持ちからである。「自分自身の事を語るトーク番組の出演は苦手であり、地声は低音である」と、2002年5月29日にOAされた『わたしはあきらめない』(NHK制作)で本人自身が語っている。しかし、その後ナインティナインやダウンタウンの番組に頻繁にゲスト出演する経験を経て、素顔でトーク番組などにも出演するようになった。
2004年、『全員集合』コントで、いかりや長介に攻撃するシーンは「本気でやっていた」と加藤茶に言われ、本人も認めた(他のメンバーも大同小異であった)。しかし、いかりやはお笑いに関しては完璧主義者だったため、いかりやがそれを求めていた部分もある。
日本だけでなく、台湾(『だいじょうぶだぁ』)、タイ(『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』)、インド(蚊取り線香のCM)でも知名度が高い。金城武が志村のファンであることは有名である。
ドリフターズにおける担当はキーボード。過去のバンド演奏でキーボードを弾いている姿が見られる(しかし、高木は「ギターだった俺が荒井の担当だったキーボードになって、ギターしか弾けない志村がギター担当になった」と発言している)。
ビートルズの日本公演を観に行った際、持参した一眼レフカメラで1枚のみ隠し撮りをしており、その写真をパネル化して、テレビ番組で公開したことがある。その写真によると、ジョン・レノンが丸いサングラスをかけており、7月2日公演と分かる。同日の公演は、音源・映像とも、一切公式に収録されていない。
日本中央競馬会に所属していた競走馬「アイーンベル」の馬主である(本名の志村康徳名義)。その馬のデビュー日に(ドリフの先輩であり、1981年に志村と共にノミ行為で摘発された)仲本工事がゲスト出演したグリーンチャンネルの番組『競馬場の達人』の収録のために競馬場を訪れており、来賓者席から応援していた。志村は他に「ケンエックス」「ケンノホシ」「ハセノユキノコ」「ミツノアジ」「ハルカナミチ」「トノノオナリー」と言う馬も所有している。
『8時だョ!全員集合』の観客の名フレーズ「志村〜、後ろ、後ろ」に関して、番組終了後の特番で「朝からリハーサルやってんだから言われなくてもわかってるんだよ」と述懐している。生放送中の観客席に向かっても言っていた事を特番で加藤茶に暴露される。
ドリフのリーダーであり、志村の師匠でもあるいかりや長介とは一時期(1989年から1990年代始め頃)不仲と伝えられ、実際この頃の『大爆笑』ではいかりやと絡むコントは無く、リハも撮りも別々に行われていたこともある。また、雑誌『Switch November 1991 特集・志村けん「笑う男」』誌上では「今のいかりやさんは面白いとは思わない。実際いかりやさんとは2年以上会っていないし…」と語っていた。また当時『ダウンタウンDX』にゲスト出演した加藤茶も、松本にメンバー同士で喧嘩することはないですか、との問いに「…と…(名前の部分はOAでは伏せられていた)は合わないみたい」と言っていた。しかし、いかりやが亡くなった時に自宅へ真っ先に向かったのは、加藤茶と志村だった。二人ともショックでしばらく動けなかったという。
いかりやは弟子である志村が単独で活動・成功しているのが面白くないのではと言われていたが、著書の中で「志村をリーダーに第2のドリフを作って欲しい」としている事からも、近年はむしろコメディアンとしての志村の活躍を快く思っていたという見方が強い。いかりやの息子である浩一も著書で、「自分の見た限りでは、特に不仲を感じることはなかった」「父さんは『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』を見ては『こういう方法があるのか』と関心を示していた」と述べている。
タモリとの共演が少ない。かつて『笑っていいとも!』のテレフォンショッキングのゲストとして出演した桑野信義が志村をゲストとして呼ぼうとしたが、「俺、明日ゴルフだから」と断った(それから約10年後、作家の嵐山光三郎の紹介で初めて出演し、更に2007年にも加藤茶の紹介で出演)。他に、研ナオコとともにけん♀♂けんのユニットを組んだときもゲスト出演している。また、『ジャングルTV 〜タモリの法則〜』にゲスト出演したが、お互いあまり話さなかった。関西ローカルの深夜番組に出演した際、「あの人(タモリ)の笑いはあまり好きじゃない」と語っていた。その後、『ミュージックステーション』にてゲストとしてミニモニ。と共に出演をした際にはタモリに質問されたり、Gacktに何回も振り向かれていた。仲が悪いわけではなく、ただ笑いの観点が違うだけだと言われている。
「あなたは神様ですか?」「とんでもねえ、あたしゃ神様だよ」というギャグは、アメリカの小説『競売ナンバー49の叫び』の養老院のシーンからの引用、という説がある。
加藤の話によると、ドリフ再集合の話が持ち上がるとたびたび嫌がったという。理由としては、いかりやとの不仲説や単独で他のドリフメンバーを遙かに凌ぐ人気と活躍をしながらドリフに戻れば一番下扱いされることが不満であったと言われる。加藤も「志村がなかなか再集合したがらないんですよ」と言っていた(これが加藤のネタなのかどうかは定かではない)。
太地喜和子は、志村の熱心なファンであった。志村の著書によると、若い劇団員に対し、「ね。志村さんのお婆さんは本物に見えるでしょ。先ずは、そう見えるかどうかが大事なのよ」と言ってくれたという。太地は『志村けんのだいじょうぶだぁ』の常連ゲストとして度々出演し、急死直後には追悼番組が放映された。
コントの勉強のため、かなりの映画を見ている。一時期は「家の床が抜け落ちるくらい映画のビデオテープを買っていた」という。
ヒゲダンスで使用されたBGMはテディ・ペンダーグラスの『Do Me』のベースラインをサンプリングしたものだが、これは当時ソウル・ミュージックを好んで聴いていた志村が探し出して推薦したものである。
本人談によれば、初期のジェリー・リー・ルイスに強い影響を受けたとの事。また、かつて音楽誌『jam』でソウル・アルバムのレビューを書いていたこともある。
都立久留米高校のサッカー部にゴールキーパーとして在籍。志村入学の31年後、このサッカー部には後に日本代表選手として活躍する中村憲剛が入部している。
番組内でビートたけしのタップダンスに合わせて、三味線を弾いたり、コントで霊媒師を演じた時には琵琶でギターのテクニックの一つであるチョーキングを披露するなど、元々のバンドマンとしての技能が見られる。
志村はプライベートで東村山市及び自身の実家に帰ることはほとんどないというが、『東村山音頭』以来地元への貢献は絶大であり、現在に至るまで人気・評価とも極めて高い。
東村山ネタで人気が出始めた頃、地元における志村バックアップの動きは元祖『東村山音頭』を企画した東村山市農協が中心であった。その後東村山ネタが全国的なブームになり、東村山市自体も注目を集めるようになったことから、市民をあげて応援するようになっていった。
1976年7月、「東村山市の知名度を高めた」功績が認められ、当時の東村山市長熊木令治から感謝状を貰った。当初志村の東村山ネタについて、市議会議員や教育関係者の中には眉をひそめる向きもあったが、市長から感謝状を贈られたことにより、地元での肯定的な評価が確定した。なお東村山市に名誉市民制度が無かったため最終的には実現しなかったが、名誉市民とする意見も事実出ていた。これに対しいかりやが「東村山非国民」というギャグを使用して笑いを取っていた。なお、この時に西武鉄道東村山駅東口に感謝状授与記念と志村への激励の証としてケヤキが植えられ、通称「志村けんの木」と呼ばれている。
「志村けんの木」は秋には落ち葉がひどく、夏の夜にはスズメなどの止まり木になるため糞害もひどい。(後者はこれと言った対応策は打たれていない。)
1995年、東村山市商工会が主催した西武鉄道東村山駅開業百周年記念イベントで司会を務める。駅前広場に立つ「東村山停車場の碑」前で開かれた式典の後の小規模な催しであったが、東村山市役所に勤務する長兄の紹介で出演が実現した。参加者は志村の思わぬ帰郷に大喜びであったという。
市内の和菓子店「餅萬」(社長が志村の小学校時代の同級生)では志村けんにちなむ「だいじょぶだぁ饅頭」「だいじょぶだぁどら焼き」「だっふんだぁ饅頭」「だっふんだぁどら焼き」を「東村山名物」で販売している。
元ネタは、裏番組『欽ちゃんのドンとやってみよう!』内コーナー「レコード大作戦」の視聴者投稿作品。当初は少年少女合唱団のコーナーで披露されたが、好評を博したため、冒頭のコント内で披露される。突然カラスの操演物(可動式のぬいぐるみ)が登場し、鳴き声を発するのを合図に歌われる。最後に威張り口調で「ありがとうございました!」と言って締める。三船敏郎はこの歌が大好きであった。
「かあさん」の部分を男性器の幼児語に変えて歌おうとするが、途中でいかりやにどつかれてしまう。その後「そうよ、短けりゃ、ブタなのよ」という、下ネタでないバリエーションに改められる。
加藤茶とのコンビ。お互いを「キョーデー」(兄弟)・「ナンデー」(何だい)と呼び合い、『ヤン坊マー坊天気予報』の替え歌を歌い始める。「小さなものから〜」のところでお互いの股間を指し合うが、途中で2人ともいかりやにどつかれてオチがつく。
「最初はグー」で始まるジャンケン。仲本工事とのペア。敗者には罰ゲーム(水や膨らむ風船などをズボンに入れられる、透明ケースを頭に被せ多量の粉(呼吸器への影響を考慮して喉の薬を使用)を注入など)が待っている。後に「最初はグー、またまたグー(または「お次はチョキ」)、いかりやチョー介、頭がパー、正義は勝つ!」になった。最後の「勝つ」の部分はグーを出す。なお、本人および加藤茶によると、「最初はグー」のじゃんけんは、じゃんけんする人数が多すぎる場合にタイミングを合わせるべく、『全員集合』の現場で始まったとのことである。これによりジャンケン掛け声の第一声に「最初はグー」と言うのが広く世間に広まったとされる。
加藤茶とのコンビ。エレキベースによる印象的なBGM(『「ヒゲ」のテーマ』)はソウルの名曲『Do Me』を、たかしまあきひこがアレンジしたもの。たかしまによると、ソウル通の志村が『Do Me』のレコードを持って来て「これと似たようなBGMできないかな?」と言ったという。志村はソウルやファンク、ジャズにも造詣が深いらしい。ちなみに、この付けヒゲは、振付師兼ギャグアドバイザーだった藤村俊二のトランクから拝借したと、藤村本人が語っている。
桜田淳子との夫婦コント。『全員集合』の後半戦で、桜田がゲスト出演するたび毎回のように披露された。何をやっても駄目な新妻・桜田を、夫・志村が事細かく徹底的に叱りまくり、叱られるたび桜田が「私って駄目な女ね。あなたの妻でいる資格なんてないわ」と泣き崩れる。その度志村がなだめて桜田をおだて、桜田が愛される幸せをかみしめる…というパターンを何度か繰り返す。ところが志村の背広のポケットから“おさわりバー・百恵”という文字の入ったマッチが出てきて(“百恵”は山口百恵のこと。桜田と同じ花の中三トリオで親友かつライバル)、逆に桜田が志村を徹底的に糾弾。志村が「私って駄目な男ね」と泣き崩れてオチがつく。パターン踏襲スタイルの古典的なコントではあるものの、志村と桜田のキャラクターと演技力が余りにも秀逸で、BGMや照明などの舞台効果も高度に計算されているため、何度見ても笑えると評判になった。桜田の演技力やカンの良さには定評があり、こういったショートコントでも名女優ぶりを見せていた。また、このコントは子供に人気があり、このコントを見るがために舞台に足を運ぶ人も沢山いた。
上記の夫婦コントの中などでも度々行われていたギャグ。食事の前に「何かいい音楽ないの?」志村が切り出し、相方がテープレコーダーのスイッチを入れると、ルロイ・アンダーソンの楽曲『タイプライター』が流れてくる。最初は普通に食べているが、余りのテンポの速さにせわしない食べ方になってしまい、「チーン、サッ」の音とともに素早くカメラ目線をしては元に戻るという動作を繰り返す。最後には「やめろよ! 落ち着いて食事ができないじゃないか!」と志村が切れてオチがつくというもの。
加藤、女性ゲストとの三人で演じる時代劇コント。志村演じる病気の父と健気に看病する娘。そこへ加藤演じる借金取りが現れ返済を迫り、無理とみると「借金のカタに娘をもらってくぜ!」と言って強引に娘を連れ出そうとするや否や志村が「加藤の旦那、それだけはご勘弁を〜!」と加藤を何度も壁に叩きつけたり、プロレス技をかけたりと散々痛めつけ、倒れた加藤が「おい、借金はいいからよ、医者呼んでくれ…」と音をあげてオチがつく。『ドリフ大爆笑』ではこのパターンをTV画面に映し、その傍で女性が着替えや入浴で服を脱ぐごとに志村と加藤がコントそっちのけで目移りしてしまう等のメタ的な変化を加えた派生型のコントも存在する。
フジテレビでのシリーズが有名だが、1980年前後に『全員集合』で披露されたコントが原型と言われている。橋幸夫演じる立派な殿様の影武者として、いかにも愚者らしい白塗りの顔の志村が抜擢され、城内で大騒動が起こる…という内容だった。当時は黒澤明の映画『影武者』が話題になっており、橋幸夫も漫才コンビザ・ぼんちに物まねをされて再ブレイクしていた。
志村の後ろにお化け等もしくはいかりやが出てきて志村が気づいていないときに観客(主に子供)が叫ぶ。志村が能動的に行うギャグではなく、観客の偶発的なリアクションだが、同種のコントを披露するたび「志村、後ろ後ろ!」と声が飛んでいた。このコントは後輩コメディアン達に「タイミングを合わせるのが難しいので、そう真似できる物ではない」と言われている。
地位が上のいかりやの横暴にじっと平伏しているが、途中でいきなり強気で反論し始める。現在で言う“逆ギレ”。
沢田研二の『勝手にしやがれ』とピンク・レディーの『渚のシンドバッド』の音をコラージュし、音に合わせて両方の振り付けで踊るが、どんどん滅茶苦茶になっていく。ちなみにサザンオールスターズのデビュー曲『勝手にシンドバッド』はこれがヒントになっている。
♪今の君はピカピカに光って〜、の歌に合わせて服を脱ぎパンツ姿になる。そして腹の肉をつかんで「宮崎美子!」と一言。仲本や加藤が背景の木を持って補助。
「オッポー!」。「ポー」にアクセント。アントニオ猪木のまねで「なんだ、この野郎!」と叫ぶこともあった。加藤と一緒に馬場と猪木のハリボテ面を被る場合もある。
他説岩手県西和賀町にロケで宿泊した旅館の夕食の際、珍しい郷土料理を見て「これ、食べても大丈夫ですか?」との質問に、親父さんが「だいじょうぶだぁ、クェ、クェ、クェ(食べなさいの意)」と答えたのが語源となった。
変なおじさんがコントのオチで言うセリフ。桂枝雀の落語に出てきた「偉い人のくしゃみ」が「だっふんだ」に聞えたのがきっかけ。
プロ野球選手のアレックス・ラミレス(ヤクルト→巨人)が本塁打を打った後、テレビカメラに向かって行うパフォーマンスの一つとしてもお馴染み。
ひとみ婆さん(メガネをかけた手の震えるばあさんひとみさん。「ひとみと申します。ひぃちゃんと呼んでください」)
いえいえおじさん(小心者で「いえいえ…」と遠慮するが、結果的にヤクザを退治したり、トラブルを解決してしまう。本人は、割と気に入っていたキャラだったそうだが、活躍の場面は限られたそうだった。)
キリンの「淡麗グリーンラベル」のCMより。元々はドリフを連想させる容姿の外国人キャストによるCMだったが、「本家」の志村が後に合流した。
『加トちゃんケンちゃん』時代に、「ケンちゃんラーメン」が販売されていたが、CMは撮り直しこそするものの、いつも「ケンちゃんラーメン新発売!」だったため、発売後約8年間もの長きにわたって「新発売」と言われていた。
上記の通り、様々なキャラクターに扮しているが、その中でのお気に入りベスト3は、という質問をされたとき、志村は「バカ殿様、変なおじさん、そして一番はひとみ婆さん」と答えた。
ハイパーオリンピック殿様版(ファミリーコンピュータ、コナミ、1985年、8時だョ!全員集合のバカ殿様コントで使用されたものが後に市販された)
志村けんをデフォルメした主人公の小学生「志村ケン太」と言うキャラクターがいる。他のドリフメンバーでは加藤茶がケン太の親友「加藤茶太郎」で、いかりや長介がケン太の通う小学校の校長「おこりや長介校長」と言うキャラクター。それ以外の芸能人ではビートたけしやウッチャンナンチャン、宮沢りえやデーブ・スペクターやダウンタウン、観月ありさなどのデフォルメキャラがいる。連載開始当初は「元気いっぱいシムラくん」というタイトルだったが、すぐに上記タイトルに変更された。
この「志村けん」は、歌手に関連した書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正などして下さる協力者を求めています(P:音楽/PJ芸能人)。

 

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