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来歴とは?/ ディック

[ 659] 黒川紀章 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E5%B7%9D%E7%B4%80%E7%AB%A0

夫人は女優の若尾文子。弟は建築家の黒川雅之(弟の妻はコーディネーターの加藤タキ)。前妻との間に1男1女。
槇文彦、磯崎新、谷口吉生らと共に、丹下健三の門下生(丹下研究室出身)の建築家である。1960年代に建築理論メタボリズムを浅田孝らと提唱した。メタボリズムに基づいた増築・取替えの可能な建築として中銀カプセルタワービル(1972年)などの作品がある。
2007年4月の東京都知事選挙、同年7月29日の参院選に出馬(後述:#政治活動参照)。いずれも落選だったが、バラエティー番組への出演と合わせて、話題を呼んだ。しかし、そのわずか2ヵ月後の同年10月12日午前8時42分、多臓器不全(本人の公式ページでは心不全)のため東京女子医科大学病院で死去。享年74(73歳没)。夫人によれば、前日11日に同病院で診察を受けたところ、検査入院を勧められて入院したばかりだったという。戒名は至聖院範空功道居士
日本会議代表委員。他にアメリカ建築家協会名誉会員、英国王立建築家協会名誉会員、日本景観学会会長、ブルガリア建築家協会名誉会員、フランス建築家協会正会員、カザフスタン建築家協会名誉会員、ロシア建築アカデミー外国人会員などを務めた。
かねてから右派系政治団体「日本会議」で代表委員を務めるなど、保守派の論客として知られていた。2007年の東京都知事選挙(4月)、第21回参議院議員通常選挙(7月)に出馬したが落選。老齢な世界的権威の初出馬は多くの者にとって唐突かつ奇異な印象を与えたが、派手なパフォーマンスが世間の注目を集め、TVでの露出も増え、「バラエティの宝」とも言われた。
都知事選出馬表明の約8か月後に世を去ったため、一連の政治活動とメディア出演は死期を悟った上での行動だったのではないかとも言われる。なお、建築家磯崎新は黒川の死後、彼の立候補によるアイデア表明はメディア型建築家として当然のことと見做し「(都知事選の)マニフェストは群を抜いていた」「そのアイデアは誰かが実現させることだろう」と述べた。[1]
また、死の直前に収録したいつみても波瀾万丈では、青年時代から政治に対する情熱があり、日本の将来を案じていることを涙ながらに語る場面もあった。
主要4候補の一人としてテレビ討論に出演するなどメディアに取り上げられるも落選(票数:159,126、得票率:2.9%)。結果的に得票数は少なく泡沫候補とも変わらないような状態だった。多くの評論家、ジャーナリストから「なぜ出たのか分からない」、「本気だったのか分からない」、「金持ちの道楽」と言われるなど、立ち位置が分かりにくかったことが敗因ではないかと思われる。
選挙翌日のフジテレビのインタビューでは、浅野史郎が敗因や感想を述べ総括をしていたのとは対照的に、都政の具体的な話題に熱弁をふるい、次の都知事選に触れるなど、政治への熱意がさめやらぬ様子であった。
都知事選立候補時の記者会見では自らの政治思想について反金儲け主義・共生主義と表現し、社会主義に近いとも発言している。
自らがデザインした円形のガラス張り選挙カーを使用、クルーザーから手を振る、ヘリコプターで都知事選候補者では初めて離島へ向かうなどの選挙活動を黒川自らが「陸海空作戦」と称した。当初は飛行船から桜吹雪を撒き散らすというアイデアもあったが、選挙管理委員会の許可が降りなかった。
他の主要候補者が演説している場所に突然現れ、対話しようとする選挙活動を一部のメディアが「奇襲作戦」と称した。選挙戦の最終日は新宿西口で演説中の石原慎太郎候補の近くに来て、「石原裕次郎の名前を出さないと当選できない石原慎太郎さんには、この歌を送ります」といい、石原裕次郎の名曲『銀座の恋の物語』を歌った。
目立つ行動を印象に残したが、決してパフォーマンスのみに固執しているわけではなく、都政の個別の案件を独自の専門的な視点で批評するなど、堅実な姿勢も見られた。
バラエティー番組『太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中。』にも出演、冗談交じりのトークで場内を沸かした(「私の年収は200億円だ」など)。
2007年7月30日、TVバラエティ番組『SMAP×SMAP』に出演、「SMAPが家を建てる時は無料で設計する」と数度繰り返し約束。また、「その際には必ず奥さんと一緒に頼みに来ないと受けない」とも語った。理由は「家は奥さんの希望通りに作った方がいい。うまくいくことが多いんで」。また、「一般家屋に必要なものは何でしょうか?」と聞かれ「“個人の部屋”。自分の部屋を持つと個性が出せる。お父さんには書斎を作ってあげること。そしてお母さんにも自分の部屋を。それが一般家屋の理想。日本では難しいけれど…」と、黒川には珍しい一般家屋設計についての発言となった。
TV討論や単独インタビューでは、椅子に座って斜めに構える、一定のポーズで頬に手を当て発言やメモをするなど、独特の雰囲気を醸し出している。
黒川がファンだった若尾文子とテレビ番組「すばらしき仲間」で共演(1976年)、その時に若尾の美しさをバロック芸術(肯定と否定の矛盾)にたとえた。番組をきっかけに交際が始まり、黒川と前妻の離婚が成立した1983年に若尾と結婚。再婚同士だった。
日本文化デザイン会議では黒ずくめの服装で日本刀を持ち込み「僕はいつも、明け方三時にこれ(日本刀)を抜いて、自宅近辺を走ってますよ。刀を抜いて着物で走るという“実戦”の訓練を昔からやっているんです」(週刊文春 2007年3月8日号)と発言するも、真相のほどは不明。
黒川は黒を好む人物として知られており、1960年代に黒を流行らせたと自負している。また、「黒の服しか着ない」と述べており、初めて買ったポルシェの色も黒で、自身の事務所のワークステーション(事務機器)も黒である。その他、IBMのロゴに対して、三色を使っていることと斜めを向いていることに対して、「いわれにこだわりすぎ」と述べるほどである。[2]
住まいは、自身設計の東京赤坂のマンション。他にサンディエゴ、シンガポール、ロンドン、サンクトペテルブルグにある。
亡くなる二日前、妻の「あまり良い奥さんじゃなかったわね」という言葉に対して「そんなこと、そんなこと…本当に好きだったんだから」と答えたのが妻と2人で交わした最後の言葉とされる。[3]
台風で甚大な被害を受けた高千穂鉄道(のちの神話高千穂トロッコ鉄道)の再建に数億円規模の寄付を行う意向を示していたが、急逝し話は無くなった。神話高千穂トロッコ鉄道は再建を断念。

 

[ 660] 在日コリアンの来歴
[引用サイト]  http://mirror.jijisama.org/zainiti_raireki.htm

コリアンや左翼マスコミの主張は何だか変だぞ。と思ったことはありませんか?自分達の基準や利害を優先して、嘘と誇張で日本の国益に反することを平気で行っているようにも見えます。そこでこのページでは、彼らの主張と相反する資料を集めて編集し、別の立場から見てもらうことにしました。あなたは第三者として双方の違いを比較検討して、正しいと思われるものを自分の意見の参考としてください。
「仮に北が日本人を拉致したとしても日本人は批判できるだろうか。戦争中、膨大な数の朝鮮人を国家の名の下に拉致した歴史的な事実がある。いまなぜ日本に多くの朝鮮人がいるか考えてみてほしい。自国の歴史を忘れた発言が多すぎる」
反日マスコミや左翼教師に洗脳された人たちがこの言葉を聞くと、『銃剣で脅されてトラックに無理矢理乗せられた善良な朝鮮人達が、日本に送り込まれて炭坑で重労働させられる』 という酷い場面等を想像して思考停止に陥り、相手に反論できず言い分を聞いてしまうということが多いようです。
しかし資料を見ると実は強制連行でそのまま住みついたという人々はごく少数であることが分かります。反日マスコミや反日コリアンはこの事実を知ったうえでの報道・発言でしょうか?
3.調査の方法 国民登録台帳をもとに各地方に居住する在日朝鮮人の人数にほぼ比例するように調査票を割り当て、訪問面接による聴取を行なった。
これによると、大部分は本人の自発的な意思で渡日したもので、いわゆる"強制連行"が原因で日本に住みついた人は全体の13.3%しかいないことが分かります。しかし早い時期に渡日した人はすでに亡くなっていること、また家族の一員として渡って来た12歳未満の子供は含まれていないので割合はこれより下がります。さらに戦後渡ってきた者(密航?)を含めるとさらに低下します。
上記資料の分析で徴用(強制連行)数に疑問を呈しています。どうやら本当の強制連行者はさらに少なくなるようだ。
発刊された「”我々の歴史を取り戻す運動”報告書」(在日本大韓民国青年会中央本部)には、全国千百余人の一世から直接聞きとりした調査結果が収録されてい
このことは理屈の上から考えても当然のことであろう。着のみ着のまま徴集され、人里離れた炭坑や鉱山で虐待酷使されていた者が、日本に残ろうと考えることは想像しがたいことである。彼らは日本の一般社会とほとんど関係なく生活してきたのであって、言葉もろくに出来ず、日本で生活していく基盤ももっていない。彼らは日本に来て、一番長い者でも
(官斡旋を徴用とみなしても) 5年そこそこなのであるから、故郷とのつながりは十分持続しているはずである。特に彼らは、妻子を置いて一人だけで徴用されており、その移動はきわめて容易であった。これら徴用された人々の大部分は終戦直後早々に、この、"恨みの島"から故郷へと飛ぶようにして帰ったものとみられる。
私の調査体験をもって、安易な結論を導き出すことは慎まなければならない。だがそれにしても、文字どおりの「強制連行」で日本に連れてこられた人達の大部分は母国に帰り、それ以前に仕事を求めて渡日してきた人たちが中心になって日本に残留した、という一般的傾向が認められると思う。
徴用された朝鮮人は、終戦と同時にほとんど帰国しており、今日在日朝鮮人が声高に、自分たちの父母は『強制連行』されたと言い立てるのは、他に目的あってのことと考えざるを得ない。
かつて朝鮮人学校で父母の来日動機を調査したところ、『朝鮮では食えないから渡航して来た』という回答がほとんどで、『強制連行』と答えたのは一人しかいなかったので困惑したという報告があるそうだが(田端元「好太王から朝鮮滅亡後まで」十六)、さもありなんという気がする。
中学校の教科書では上のように強制連行という言葉を使っています。そして、いやがる人に暴行を加え、手錠をかけて無理矢理連れて行く様子を描いています。それが6年間続いたと教えているのですが、本当でしょうか。
徴兵と同様に、国民は、通知された場所に出頭し、指定された軍需工場などで働きました。当時の日本国民のほとんどは、この徴用を国家非常時の当然の義務だと考えていましたから、進んでこれに応じました。
さて当時、法的には「日本国民」であった台湾や朝鮮では、この法律はどのように適用されたのでしょうか。台湾では、日本本土と同時に徴用令が施行されましたが、朝鮮では施行されませんでした。その代わり、日本企業が朝鮮で自由に労働者を「募集」することを許可しました。それまでは、朝鮮人労働者が大量に本土に流入すると失業者が増加するので、日本政府は朝鮮人労働者の移住を制限していたのです。制限を取り払ったので、多くの朝鮮人労働者が日本にやってきました。
けれども、1942年(昭和17年)になると、さらに人手不足は深刻になりました。朝鮮でも、総督府が自ら乗り出して朝鮮人労働者を集めなければならない状況になりましたこれを「官斡旋」といいました。官斡旋は、面(村)ごとに人数を割り当てました。そのため、役所から就職先を斡旋された場合、それは義務に近いものとみなされされましたけれども、朝鮮における官斡旋は、本土や台湾における徴用と同じではありません。それは、官斡旋で労働現場に来た朝鮮人労働者が就職先を辞めても、罰則がなかったことです。例えば、ある朝鮮人労働者は、官斡旋で本土に来たのですが、なじめなかったかすぐに辞めています。そして、友人を頼って朝鮮人経営の土木会社に就職しました。正規に住居移転の手続きをして、食糧の配給も受けています。
朝鮮にも「徴用」令が施行されたのは、1944年(昭和19年)になってからでした。けれども、総督府では、なるべく自分の意思で徴用に応じてほしいと願い拒否した者への罰則の流用を控えました。そのため目標の達成率は79パーセントにとどまりました。
「…後を振り返りながら、別れの言葉もそこそこに集合場所である永登浦区庁前の広場に向かった。広場は出発する人、見送る人で一杯だった。徴用者の点呼が終わると一同は隊伍を組んで商工会議所の前に集まり、各地から動員された人々と共に壮行会が催された」(「朝鮮人徴用工の手記」河合出版)
鄭氏は、その後広島の東洋工業に入社し、終戦時までここで働いて帰国しました。本書には、寄宿舎生活の様子や被爆体験、日本人との交流などが綴られています。
また、いわゆる「強制連行」の実態に関しても、一般で認識されているのとはかなり違う実態があったことが少しずつ明らかになってきている。たとえば朝鮮総督府が行なった土建労働者の「官斡旋」による道外募集(いわゆる強制連行の一部とされている)では、使用者に対して賃金、待遇などで労働者を厚遇するようにかなり細かく指示している。たとえば飯場料は賃金の二分の一以下とするとされており、借金づけによるタコ部屋化を禁じている(くわしくは広瀬貞三「『官斡旋』と土建労働者」、『朝鮮史研究会論文集』第29集参照)。
また、1944年に広島の軍需工場に徴用された鄭忠海氏は90年に日本で出版した手記(『朝鮮人徴用工の手記』河合出版)の中で、新築の寄宿舎で新しい寝具が準備され、食事も十分で満足でき、仕事は日本人女子挺身隊員といっしょであり、「女性たちとの恋だの愛だのということに心をうばわれているようで、工場内の風紀は言葉にならないほどだった」と書いている。
先述のように戦争のために国家総動員法による徴用には法的強制力があった。それにより韓国人が強制連行されたが、同様に大多数の日本人も「強制連行」されたというのが歴史の真実なのである。
誤解の第一は、終戦時約200万人を数えた朝鮮人労働者の大部分は本人の自発的な意志によって渡航して来たもので、『強制的』に『連行』されたものではない、ということである。いわゆる『強制連行』は、大東亜戦争勃発に伴う労働力不足を補完するため、戦争中の昭和17年(1942)に、それまで自由募集であった朝鮮人労働者を『官斡旋』、すなわち朝鮮総督府が募集することにし、間に立った朝鮮人ブローカーが強引な徴用を行ったことを指して言う場合多いようだが、その実態ははなはだ不明瞭である。
そもそも日韓併合以降、貧しい韓国から豊かな日本へ移住しようとする朝鮮人は引きも切らぬ有り様だったのであり、朝鮮総督府や日本政府は法律の網の目をくぐってでも日本で働こうとする朝鮮人の密航者には、終始頭を痛めていた。法律を犯してでも日本に入国しようとする朝鮮人が一杯いたというのに、何で『強制連行』の必要があるのだろうか。その必要はなかったし、むしろ日本側は迷惑していた。昭和4年(1929)の『瀬戸方面に於ける朝鮮労働者事情』(名古屋地方職業紹介所)によれば、朝鮮と日本内地の賃金格差は二倍もあり、これに加えて毎年30万人に及ぶ朝鮮人の人口増加により、内地のみならず満州やシベリアへも多数の朝鮮人が移住しつつあった。日本内地への渡航希望者は度重なる日本側の規制にも拘わらず増加の一途をたどったのである。
また、同年の国民徴用令の公布をもって朝鮮人『強制連行』の起源と誤解している著作が多数見受けられるが(朝鮮人強制連行真相調査団「強制連行、強制労働の記録」、朴在一「在日朝鮮人に関する総合調査研究」等)、国民徴用令が朝鮮人にも適用されたのは昭和19年9月のことであり、厳密に言えば朝鮮人の徴用が行なわれた期間は昭和19年9月から関釜連絡船の閉鎖された昭和20年3月までの6ヶ月間に過ぎない。
誤解の第二は、『徴用』は『強制連行』ではないということだ。当時、内地でも日本人は戦時『徴用』されていた。併合の結果として日本に編入された以上(植民地ではない)、日本人たる朝鮮人を戦時『徴用』しても、『強制連行』の概念には当らない。今日の価値観を、体制の異なる戦時中にそのまま適用するのは歴史解釈として間違っている。
自民党の野中広務幹事長の「かつてわが国が36年間植民地支配をした時代に、朝鮮半島から(強制)連行してきた人たちが、今70万人といわれる在日を構成している」という発言を本紙で読み、事実に対するここまでの無知はないと驚きを超えて怒りすら覚えた。明確な事実誤認が三つある。
第一は、昭和14年から開始された朝鮮人内地移送計画により渡日した者とその子孫は現在の在日の中にほとんどいないという点だ。終戦時の在日人口は約200万人であり、そのうち移送計画による労働者は32万人に過ぎない。占領軍の命令によって日本政府は引き揚げ船を準備し、運賃無料、持ち帰り荷物制限230キロまでという条件で帰国させた。昭和21年末までに約140万人が朝鮮に帰っていき、自分の意志で残留を希望した約60万人が日本にとどまった。引き揚げにあたっては移送計画により渡日した労働者が優先とされている。結果として、32万人の「連行者」はほとんどこのとき帰国している。このことは在日一世の渡日時期調査によっても裏付けられている。
第二は、そもそも上記の朝鮮人内地移送計画の実態が「強制連行」などというものではなかったという点だ。計画期間中、在日人口は120万人増加する。各種統計を総合すると、このうち出稼ぎ渡航者とその家族が63万人で過半数となる。戦時中、労働者不足が激しかった内地に向かい朝鮮人は自分の意志で大量に渡航していたのだ。前記の32万人が終戦時における戦時動員労働者である。残り25万人は「官斡旋(あっせん)」「徴用」で渡日した後、現場を逃走し条件のよい飯場などで働く「自由労働者」(当時の用語)となった者である。昭和20年内地における朝鮮人土建労働者を見ると、計画による動員労働者一に対して自由労働者七の割合であった。日本政府は移送計画実施期間中も内地に密航した朝鮮人を取り締まり朝鮮に送り返していた。こちらこそが本当の強制連行だ。「官斡旋」「徴用」は出稼ぎで建設現場などで働こうとしていた朝鮮人労働者の働き先を炭鉱、金属鉱山など軍事産業に転換させるというものであり、それは全渡日者のうち四分の一だけしか対象にできず、ほぼ失敗した政策だったのだ。
第三は、戦前から継続して日本に在留しつづけている在日韓国・朝鮮人(子孫含む)でいまだに外国籍を維持したままの者は70万人ではなく約52万である。日本政府は彼らに「特別永住」という他の外国人にはない特別に優遇した法的地位を与えている。社会保障制度も日本人と同じ扱いがされ、その地位は子孫代々まで保障されている。この52万人以外の在日韓国・朝鮮人はいわゆる戦後入国者だ。
外国人地方参政権付与は基本的事実関係すら知らない与党幹部によって推進されている。事実に基づかない安易な贖(しょく)罪意識は百害あって一利なしだ。参政権が欲しければ帰化手続きにより日本国籍をとればよい。すでに23万人以上の韓国・朝鮮人がそれを選択している
反日プロパガンダが保守政党にまで浸透しているのか、それともただの無知なのか。いずれにせよ立法府の由々しき事態だ。
朝鮮と台湾では同じ植民地でありながら徴用(強制連行)に対する受け取り方がまったく異なっています。あなたはどちらが真実に近いと思いますか?
町を歩いている者や、田んぼで仕事をしている者など手あたりしだい、役にたちそうな人はかたっぱしから、そのままトラックに乗せて船まで送り、日本に連れてきた。徴用というが、人さらいですよ。(大阪書籍、260ぺ−ジ)
警察官や役人が土足で家に上がり、寝ている男を家から連れ出すこともありました。抵抗する者は木刀でなぐりつけ、泣きさけびながらトラックに追いすがる妻子を上からけりつけたともいわれます。(東京書籍、264ぺージ)
戦争末期に深刻化してきた内地の労働者不足を補うための朝鮮人労働者内地移入では一部に行過ぎがあったようで、強制連行を主張する韓国人の証言を読んでいると、農作業中などに無理矢理トラックに乗せられて日本内地へ送り出された、というのがあるが、それらを実行したのは内地人ではなく朝鮮人なのである。
(著者の鎌田澤(沢)一郎は、戦前の朝鮮に16年間滞在し、京城郊外に民族経済文化研究所を設立した朝鮮研究家で、6ヶ年にわたる宇垣総督の政策顧問を勤めて、農村振興運動の推進に大いに貢献し、朝鮮の民生向上に大きく貢献した人物で、戦後その経験を買われて、セマウル運動(新しい村運動、実質的には宇垣政策を発展させたもの)の指導のために何度も韓国に招かれている。)
もつともひどいのは労務の徴用である。戦争が次第に苛烈になるにしたがつて、朝鮮にも志願兵制度しかれる一方、労務徴用者の割り当てが相当厳しくなつて来た。納得の上で応募させてゐたのでは、その予定数に仲々達しない。そこで郡とか面(村)とかの労務係が深夜や早暁、突如男手のある家の寝込みを襲ひ、或ひは田畑で働いてゐる最中に、トラックを廻して何げなくそれに乗せ、かくてそれらで集団を編成して、北海道や九州の炭鉱へ送り込み、その責を果たすといふ乱暴なことをした。但(ただし)総督がそれまで強行せよと命じたわけではないが、上司の鼻息を窺ふ朝鮮出身の末端の官吏や公吏がやつてのけたのである。
「朝鮮人強制連行」という言葉を造語し世に広めたのは、朴慶植著「朝鮮人強制連行の記録」という本であるといわれているが、この中で強制連行があった証拠として、上記の鎌田沢一郎著「朝鮮新話」が引用されているが、傍線を引いた朝鮮人が暴走して実行したという部分はなんと無視されているのだ。両書を見比べていただきたい。
歴史教科書の一部には強制連行の実態として『田畑で働いていた朝鮮人を有無を言わせずトラックに乗せ日本内地の炭鉱などに送り込んだ』等と書いているが、総督府の方針を曲解暴走して人さらい同然の行動を起こしたのは朝鮮人自身であったことを明記すべきだ。
李朝末期の朝鮮に滞在したアメリカのメソディスト派宣教師で、ジャーナリストでもあり歴史学者でもあったホーマー・ハルバートは著書「朝鮮亡滅」(「醜い韓国人」朴泰赫 1993年 光文社より)の中で、『朝鮮人は、自分の知的水準を引き上げ、精神世界を拡大しようとするいう努力があわれにもないのに、社会的地位を高めようという激しい欲望だけはある。 自分のものでなくとも少しばかりの金を自由に動かすことができるとか、何人か働くのを監督するとか、ともかく物の面、金の面で人間を支配できるようになると、おしなべて有頂天になる。朝鮮人は、有力者になる、あるいは名声を博すということだけで、まるで逆上してしまい、ますます尊大な態度をとるようになる。朝鮮人特有のこの感心できない性向が、じつは企業、あるいは教育、宗教の分野で、朝鮮人を登用する際に起こる、ごたごたの原因の一つなのである』と述べている。
「朝鮮人の強制連行」問題の著作物は、地方の公立図書館へ行くと、意外なほど多い。戦前の日本国内では、朝鮮人の犯罪者が多かったので、いかにして朝鮮半島からの人の流入を釜山港で阻止するかに悩み、たびたび朝鮮総督府に有効な対策を求めていた。だが、「朝鮮人の強制連行」問題の著書があれほど多くても、「犯罪」「入国阻止」関連研究書は、大学図書館でさえほとんど見いだすことが困難だ。
韓国人の著述には、「日帝36年」について「強制連行」「強制労働」「強制徴集・徴用」と表現することが多いが、その「強制連行」とは、じつは大陸文化そのもので、戦争や動乱があるたびに、住民が「強制連行」されたことは、中国史にも、朝鮮史にも繰り返し書かれている。しかし、日本文化は、中国社会や朝鮮社会とはかなり異なる。近代になって、台湾に対しても、朝鮮半島に対しても、いかなる公的な義務労働であろうとも、多かれ少なかれ、工賃を払うのが日本的なやり方であった。このことからも、日本文化は、中国や韓国の社会文化とはまったく違うことが判明する。
台湾領有初期の日本軍の征伐戦争・戦記、日記を見ると、住民を略奪しながら敗退、逃亡した清国兵士に対してさえも、米と銭を与え、船で港から大陸へ送還した。地方の村長、長老を集めて訓示した後でも銭を与え、細かい気配りをしていた。そのような日本的気配りは、中国や朝鮮半島では、絶対に見られないことだ。
韓国人の「日帝」糾弾のバターンは、たいてい決まっている。それはあたかも日帝のすべての悪事悪行が隠蔽されてきたが、それが次から次へと考古学や犯罪事件摘発のように発掘されていくという図式である。
「強制連行」については、台湾人の子供まで連行され、海軍飛行場の建設工場で、酷使され、息を引き取ったと韓国有力紙に報道されたこともある。
日本の反日大学教授も不勉強であるが、韓国のマスコミも「反日」の話題でさえあれば、なんでもかんでも派手に報道するという姿勢は問題であろう。
戦争末期、台湾から日本に来た8000名の台湾少年工は、主に名古屋、大和市、群馬県の戦闘機工場で働いた。彼らは「強制連行」ではなく、厳しい筆記試験に合格、さらに身体検査にも合格、校長と両親の許可を得て来日したものであった。「強制連行」どころか、現在でいえば「東大入試」の狭き門をパスした誇りある少年たちである。私が直接彼らから聞いたところでは、「隼」以外に「ゼロ戦」をつくったという人もいた。
彼らは現在「高座会」をつくり、生存者は70歳前後になっているものの、なおも5000人以上の会員を有している。会誌も発行されている。十数歳の台湾少年工の作詞、作曲した会歌は、日本の寮歌に似ていて、合唱するとじつに感動的である。
彼らは日本人の友人との絆が強く、94年の大和市の大会では、2000人以上の会員が台湾から来日し、大和市は、交通大渋滞となるほどであった。当時、日本のマスコミは、彼らを「強制連行」と報道したため、自尊心を傷つけられ、会長が会員全員を引き連れ、新聞社へ抗議に行くという話もあったほどだ。
戦争末期の米軍空襲下でともに働いてきた台湾人と日本人は、上官と部下の関係のみでなく、その絆もなかなかに強い。私は台湾から来た昔の少年兵を連れ、かつての日本人仲間の病気見舞いや、老後の不遇者の生活の面倒に奔走する戦友を案内したこともあった。日帝の「暴挙」ばかりを追及してきた韓国人には、日本国民として育てられ、ともに国家の存亡をかけた情熱と戦友としての絆は理解できないだろう。この5000人以上の証人について、日本人ももっと「歴史」を勉強する必要があるのではないだろうか。
しかし韓国人が日本に対してだけ怒りを向けるのも、論理的ではない。太平洋戦争前に、ソ連のシベリア沿海州に30万人以上の韓国人が住んでいた。ところが、スターリンがこれらの韓国人が日ソ戦争が起こった場合に日本に協力することを恐れて、中央アジアへ強制移住させた。スターリンは妄想にとらわれた暴君だった。カザフ科学アカデミー朝鮮民族センターの調査によると、移住する過程で12万人が死んだ。だが、政府も、マスコミも、ロシアに対して抗議の声をあげることがまったくなく、友好的である。
在日コリアン1世強制連行説を声高に唱えない人は、かわりに、朝鮮総督府の土地調査事業で土地を奪われた農民が、仕事を求めてやむなく日本に渡ってきたと言います。
しかし本当のところは総督府の近代医療・衛生施策の成功で人口が爆発的に増え、その朝鮮の過剰人口が移民を促したのです。(現在の韓国は世界有数の人口密度で戦後はアメリカへ移民し続けた)
朝鮮総督府は土地調査を行い近代国家の基礎となる土地所有権を確立した。係争地では土地所有を認められる者と認められない者が出たが、日本人によって土地を奪われたというのは事実誤認である。
元来朝鮮には土地の近代的所有はなかった。広大な土地が王室・宮院・官庁・書院・両班に属し、全体として官人層が土地に対する支配力を持っていたが、彼らは土地の管理をせずに収穫だけを取り、管理は舎音という差配にまかせきりであり、しかも舎音が何段にも重なって中間で搾取し、収租の権利の主体すら明白でなかった。一方土地を耕す農民は代々土地を耕してはいても、奴婢あるいは無権利な常民であって、その土地を自己のものとするまでには成長していなかった。土地所有そのものが未熟な状態にあったのである。したがって土地所有を証明するに足る文書・記録は整わず、面積の単位は区々であり、土地の境界もあいまいであった。
さてこの時代になると韓国の教科書の記述は一方的で、これはある意味で予想されたことですが、中でも見過ごせない点がいくつかありますから、見ていきましょう。まず「土地の侵奪」という項です。要するにここでは、日本はまず朝鮮人から土地を奪い取るために、非常に複雑な登録方法を待ち出して強制した。土地所有関係を近代的に整理するという理由をつけてのことだったけれども、しかしその登録方法がむずかしいのと、反日意識のため、登録しない農民が多かった。登録されない土地は持ち主がいないということになって、朝鮮総督府の所有になった。つまり、取り上げたということですね。そういうやり方で日本が土地を奪っていったと書いてあるわけです。
それは歴史の歪曲です。どこが歪曲かといいますと、まず李朝においては、農民の土地所有などというのは、まったく保障されてないわけです。封建社会においてはヨーロッパでもそうでしたけれど、近代的な意味での土地所有権というのは、はっきりしていないんです。実は何重にも権利が重なっているということがあります。日本の地祖改正にしても、土地の私的所有を認めて、近代的な意味での土地所有権という慨念を確立したわけですが、日本が韓国でやろうとしたこともまさにこれです。つまり朝鮮総督府の最大の功績の一つは、土地の所有権を認めたということです。つまり農民に、耕作するそれぞれの土地の所有権を公権力が保障したということなんですよ。これは大きな功績です。そのことがまったく逆に語られているわけです。たしかにその過程でいろんな混乱はあったでしょうし、不平、不満も出たことでしょう。
そういうことはあったとしても、全体として、この施策は明らかに朝鮮の近代化に役だったはずです。現実には隠田っていうのがたくさん見つかるわけですし、持ち主不明な土地はたしかに総督府のものになったということはありますが、その比率はごく微々たるものです。
それがこの教科書では、何かほとんどの土地を日本人が奪ったというように読めますね。韓国の教科書ばかりか、日本の教科書も同様です。ここで引いた教育出版のものでは「土地調査を行い、その中で、多くの朝鮮人から土地をうばった」、大阪書籍では「韓国併合後の朝鮮では、日本が土地調査を進めて農民たちから多くの耕地を取り上げ」と、韓国に追従した表現になっていて、明らかに事実と違います。
なぜそのような教科書が文部省の検定をパスしたんでしょうかね。そもそも近代的な土地所有権の確立されていない国は、近代化できないんです。これは鉄則です。ものを作るにしても何にしても、まず土地の所有が確定してないとどうしようもありません。総督府がこのことにまず最初に手をつけたというのは、当然のことです。中国などは、いまだに土地所有制がはっきりしていない。もっとも、朝鮮政府でも1895年に、量田事業という土地調査を試みたことはありましたが中断していました。このことは付け加えておいていいでしょう。
たとえば、豊臣秀吉が天下統一後に行なった「太閤検地」は、歴史上の画期的なできごとであった。朝鮮総督府が行なった朝鮮の「土地調査」は、朝鮮史ではよく「土地強奪」とされているが、それはまったく次元の違う話である。近代国家としては、土地所有権の確定と、税制の確立は絶対に必要条件であるが、それは朝鮮総督府の税源の確保だけが目的ではなく、道路、鉄道、水力発電をはじめとするインフラ建設から近代農業の経営等々にも、正確な検地は絶対に必要であったのだ。
近代国家の最低条件の一つとしては、まず明確な領土領域状況の把握からはじまる。朝鮮は2000年の歴史を持つというわりには、農地の単位が曖昧にして原始的であった。たとえば「一斗落ち」とか「一日耕」という田畑面積単位があっても、単位計算が不明確で、農民の土地所有権も確立していなかった。いつ国家に没収され、あるいは追い出されるかわからない。土地は、たいてい圧倒的少数の貴族が所有し、農民と所有者の間に幾層もの中間管理人が介在していた。
韓国人学者は「土地の強奪」と主張するが、国策会社の「東洋拓殖」が買い占めた耕地面積は、約4%にすぎなかった。半数以上の農民の土地所有権が確立されたことが、歴史的事実である。台湾での日本資本の製糖会社が買い占めた10%以上の土地に比ぺても、わずかであった。それでも台湾においては「日帝の耕地強奪」という話を耳にしたことはなかった。
.李氏朝鮮は自作農だけの国ではなく、多くが小作人でその割合はかなり高かった。当然ながら小作人に土地所有が認められることはない。
晋州民乱(1862年)当時この地域の農民の農地所有関係を見ると、両班層や平民・賎民層の大部分が極端な零細農民であった。剰余生産物の蓄積が可能な中農層は全農家の15.5%ていどで、生計の維持すら不可能な貧農層が両班層では55.0%、平民・賎民階層では72.5%にもなっていた。かれらが農業生産を通して富を蓄積しようとすれば地主の小作地を借用せずにはいられなかったことを知ることができる。
朝鮮王朝末期の自作農が3〜4割で、小作農が6〜7割だったという農村調査報告は、このような現象の延長線上にあることをたやすく知ることができる。いわゆる三政紊乱(田税・軍役・還穀の乱れ)により生計に脅威を受けるのとは別に、すでにかれらはその農地所有において緊迫した状態に達していたことが知られるのである。
乱の初期には封建官僚に対する攻撃が主であったが、乱が進行するにつれて地主層が攻撃の対象となっていった事実も、前に指摘した当時の土地所有関係において説明されうるだろう。
.朝鮮人地主が日本人自作農に土地を売ったため、小作農が土地を追い出されてしまったという事もあったであろう。
在日コリアンは、朝鮮総督府の土地調査事業で土地を奪われた農民が、仕事を求めてやむなく日本に渡ってきたと主張していますが、当事者である在日1世の多くが土地調査事業が行なわれたことを知らないのです。
という訳で『土地調査事業で土地を奪われた農民が、仕事を求めてやむなく日本に渡ってきた』という主張は、どうやら正しくないようです。
日本は朝鮮農業を近代化して農民(大多数の国民)の生活向上を実現した。欧米型植民地経営とはまったく違うこの現実を見れば「朝鮮を収奪した」という言葉はあてはまらないはずだ。
朝鮮半島は、地形的には脊梁山脈が縦走しているので、日本海側は、豆満江以外は、河川の流路が短く、朝鮮海峡側に注ぐ河川には大河が多い。また、有史以来、大規模な治山、治水は、ほとんど行なわれておらず、自然のままで放置されていた。雨季はだいたい7、8月ごろで、台風の来襲も同時期に集中しているので、洪水と旱魃は、交互に朝鮮半島を襲い、その自然生態史をつくってきた。
わずか都邑付近には、石堤や土堤があるものの、豪雨になると洪水が平原に氾濫し、広漠たる平野が一夜にして湖沼と化してしまうこともたびたびあった。日本の河川に比べて、流水量は二倍もあるのに対して、渇水期の流水量は、日本の河用の十分の一から二十分の一にすぎない。
朝鮮半島は、統監・総督府時代以前は、ソウルなどの一部の都市を除いて、ほとんど自然のままの状態で荒廃していた。李朝時代には慣行にしたがって、賦役を課し、わずかに都邑のみにおいて、堤防護岸などの工事が行なわれていただけだった。
朝鮮半島には、灌漑を目的とする堰堤、あるいは河水を堰き止める石木や土でつくられた「ボク(上流に堰堤を築いて川の水を堰き止め、これを水路によって下流地方の平野に導水する)というものは、決して絶無ではなかった。はるか1500年前の新羅時代に有名なペタコル池(堤)という一大堰堤(岸長1800歩)があり、歴代王朝に堰堤の修築もないわけではなかったが、李朝未期になると、山河がしだいに荒廃し、堰堤らしいものは、廃堤の遺跡しか残っていない。灌漑用水をめぐる紛争は古来絶えることがなかった。
李朝の歴史記録によれば、堰提、ボクの施設数は朝鮮半島で2万4000を数えたといわれる。しかし水利関係者が、「万石堤」と称する貯水池以外は、ほとんどどこかに消え、荒れ果てている。農事潅漑はたいてい腕力による。流水の汲み上げに限る足踏み水車も、まれにしか見られなかった。天水に頼り、農業はきわめて原始的である。
農村の荒廃はひどく、農民は流民となってさまよい、そのうえ旱害・水害・悪疫等々もまた相次いでこの国を襲った。顕宗の時の大飢饉(1671)は飢えと疫病とによって死んだものは、前二者(秀吉軍・モンゴル軍)との戦争による死亡者よりも多く、飢民は墓を暴いて死体の衣をはぎとり、親は子を捨てて道端に行き倒れた。また、この飢民は変じて火賊といわれる群盗となるものもあるという状態であった。
朝鮮農民の間には、古来から「春窮、麦嶺越え難し」という古諺があるほどだが、農民は収穫の5割以上が年貢として取り立てられてしまうし、収穫した米も翌年3月の初めごろには全部、食いつくしてしまう。そこで、じやがいもや麦のできる6月までの3ヵ月は、春窮期といわれるのだ。李朝以来、数百年にわたって朝鮮農民の背負う歴史的な宿痾(長い間治らない病気)と言える。それは人ロの9割を占める農民のうちの8割の小作人が、保存食糧を冬季に食いつくし、麦の収穫期までの間、草の根、干し草、どん栗、とちの実などで食いつないでいくことである。
地方を治める官吏は、みな中央で任命されたうえで派遣された。中央からやってきた役人たちは、地元に対して同情心を持っていなかった。着任すると、苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)の政治を行こない、自分の任期中に、できるかぎり税を取り立てるかたわら、自分の懐を肥やそうとした。平均的な任期が短いものだったので、苛政(暴政)にいっそう拍車がかけられた。
李朝末期の韓国を訪れたカナダ人ジャーナリストのマッケンジーは、「私は、十分に耕せそうな土地をほったらかしにしていながらも、飢えに苦しむ農民のさまが理解できなかった。「どうしてそれらの土地を耕さないのか」ときいたところ、「耕せぱ耕すほど、税を取られるだけのことだ」という返事があった」(「朝鮮の悲劇」 F.A .マッケンジー)と書いている。
絶望の世界に生きていた朝鮮人。働いても自分すら養えないという、これほど理不尽な話はない。
日本は鉄道の敷設と、河川敷きの整備工事を並行して行なった。水防工事によって得られた農耕地は、日本人地主のものとなった。水防工事や水利工事は、韓国人農民にも多大な利益をもたらした。韓国人農民も水利組合をつくったおかげで安心して農耕ができるようになったから、損はいっさいなかった。全国的に護岸工事が行なわれた結果、耕地面積が飛躍的に増大した。
李朝末期まで、民衆は官吏と地主と高利貸(トンノリ)によって責めたてられて、生き血を吸われていた。高利貸は立稲先売(イップトソンメ)といって、貧民から収穫を引き当てにして、高利で金や米を貸した。両班も長利米(チャンリサル)といって蔵に蓄えた米を高利で、常人に貸し付けた。日本時代になってから金融組合ができたので、農民は、安い金利で融資を受けることができるようになった。今日でも韓国では高利貸が横行して、貧しい人々の生き血を吸っているが、李朝時代に発しているものだ。
日本人の朝鮮半島に対する「土地強奪」間題としてよく批判されているのは、日本人が小高い丘に登って見渡し、土地を指さして、手当たりしだいに良田を奪っていったというものだ。日本人は両班(ヤンバン)ではあるまいし、法治国家の国民である。これほどの歴史歪曲があろうか。
移住農民は、やがて米価の高騰により、生活状態が好転し、養豚、養鶏、養蚕、果樹園の経営その他の多角経営で、地方に貢献していった。そもそも日本農民は、朝鮮農民の粗放農業とは違い、集約農業に慣れていたので、集約的、多角的経営によって定着し、農民は生活が向上している。
日本農民が開拓した農地は、決して言われているほどの良田ばかりではなかった。開墾地は元は大河の遊水地、交通不便にして少々塩害がある干拓地であったものが少なくなかった。
当時の東拓農業移民を含めて、日本の農業移民は、朝鮮半島農民の美田、良田を強奪するよりも、朝鮮半島の農民が一顧だにしなかった不毛の地の開墾や僻地の干拓を行なう者が多かった。日本農民の朝鮮半島開拓は、数千年来の農耕国家には、まったく考えられないほどの農業革命をまき起こしている。
農業移民の改良農法は、成績が上がれば朝鮮小作人のモデルとなり、改良品種の試作によって、新品種、新農法が次から次へと普及していった。さらに移住農民の養豚、養鶏、養蚕などの多角的経営、農事施設、農業指導、勧業奨励などは、かつて小作人からの収奪しか知らない李朝時代には、見られない光景であった。当時の朝鮮人の気風としては、午前中に働いて、午後は寝て暮らす、明日は明日の風が吹くというのが一般的であったからだ。
雨や雪の日の労働を忌み嫌い、冬季になると室内に蟄居(家のなかに閉じこもり)して、無為徒食する朝鮮農民にとって、日本農民が老若男女の差なく、家族ぐるみの農事に従事し、厳冬にも室内作業その他の副業に励むことは驚異であったそして日本農民の自カ更生に燃える生活意識と勤勉な農民気風が、新風として朝鮮の農村に吹き渡った。
そもそも朝鮮人女性は屋外で労働する習慣がなく、屋内に隠れていて、他人に顔を見せることを恥としていたが、婦人の屋外勤労奨励により、少しずつ畑などで働くようになった。
日本農民の集約的農法は、労働力を結集して、換金作物から副業にまで及び、自ら資産を増していくとともに地方をも潤していった、日常必需品の急増によって地方経済をいっそう刺激し、市場経済が賑わっていく。しかも、僻地にまで組合や学校がつくられ、医療施設も普及し、道踏、橋梁がつくられ、流通、運搬も盛んになった。
「土地の収奪・搾取」などと机上で論じている戦後の論埋とは違い、日本の農民が朝鮮半島の農業近代化だけでなく、朝鮮半島の近代市民社会の成熟に多大な貢献を果たしてきた。その歴史的事実について、終戦後の学者たちは、なぜ本格的な研究をしないのだろうか。まことに遣憾である。
日本人は、農村振興運動を進めた。日本統治時代以前の韓国の農村には、河川に堤防もなかったし、水利組合も存在しなかったが、水利組合が結成されたために、河川地域が整備されて堤防が建設され、それまで恒常的だった水害から、農地や農作可能な土地を守ることができるようになって、新しい農地がつくられ、多くのところで稲作が可能になった。この結果、日本人地主も増えた。また畜産が奨励され、日本人がつくった金融組合が、希望する農家ごとに子牛一頭を無料で与えてくれた。与えたというよりは、貸したものだった。牛が成長して子牛が生まれたら、一頭を組合に返すと、成長した親牛は、無償で農民のものとなるという制度だった。
私の小学校の日本人教師や山林局に所属していた山監や若い農村教導師は、緑化について情熱にあふれていた。真面目で、献身的な青年が多かった。日本統治時代には、そのせいではげ山だった山々が緑に覆われるようになった。農村教導師は、農村振興運動の一環として農村の改革と生活改善のために、村から村へと巡回していた。
私が小学校に入学する前に、満州事変が起こり、やがて支那事変(日中戦争)に移っていったので、村でも戦時色がしだいに感じられるようになっていった。私は、父親に違れられて公会堂で農村教導師が講演をするのをたぴたび聴いた。名調子の演説が多かった。
あるいは金融組合による子牛を貸し出す制度についての講演会で、別の農村教導師が「夕焼けほのぼのと燃えあがる空を背にして、牛を連れて家に帰る美しい姿を目にしたときには、感激の熱い涙が、ポタリポタリと落ちるのであります」と熱弁を振るった。
私の小学校時代には、日本統治がもう二十五年以上になっていたので、村の人々の大半が日本語を聞いて理解することができた。そこで講話は、通訳なしに日本語で行なわれた。人々は話に耳を傾けながら、しばしば韓国語で「ケンジャンハンラサム」(立派な人だな)とつぶやいたり、「ヨクシ、ヨクシ」(なるほど、なるほど)と相槌を打った。
また「カを合わせて朝鮮を蘇生させましょう!今日の朝鮮では、山川草木が空からくれた天の恵みである雨水を貯え切れず、海に流してしまっています。ああ、もったいない、もったいない。そこで陸は、いつも旱魃に悩まされています。木がもっと山に生い繁れば、天の息みの雨の40パーセントを、飲み水や、水田の水として、または地下水として貯えることができます。徹底的に山に木を蓄えようではありませんか。水は生命の源であり、農耕の源なのです」といった話もあった。
日韓併合以前の韓国の山々といえぱ、乱伐したり、燃料にしたりしたために、ほとんどがはげ山だった。日本統治時代には植林が進んだので、多くの山々が緑に覆われるようになっていた。私の村の山にも草木が繁り、兎を追うことができた。しかし、独立後にまたかって気ままに木を切るようになったので、はげ山に戻ってしまった。
日本人地主は、韓国人の小作人の間で、きわめて評判が良かった。日本人がやってきてから、改良された堆肥を奨励したし、化学肥料が配給されるかたわら、改良品種や、進んだ農業技術を導入したので、収穫が増えたし、農地開拓と河川整備を進めたので、村人の生活水準が大きく向上したからだ。
それに日本人地主は、昔の両班たちよりもはるかに寛容だった。両班のように小作人(ソチクイン)である常人を理不尽に苛めるようなことがなかったし、不作のときには、小作料を安くしてくれた。日本人地主のほうが、物わかりがよかった。だから、日本人の地主は人気があった。みんなは、韓国人の地主の小作人となるよりは、日本人地主の小作人になりたがったのは、当然のことだった。日本人のもとで働いていた常人たちは、羨望の自で見られていた。
私たちの村は、李朝時代にはいつも水害で悩まされていた。そこで農作が思うようにできなかった水田地域を、「べべーミ」(船が浮かぶような水田)と呼んでいた。しかし、1911年(明治四十四年)、川に堤防が築かれたために、水害から逃れることができた。それからは「ベベーミ」という悪名のあった水田が一等級の水田に変わって、多収穫地として生まれ変わった。この話は、私の父親がしてくれた話である。
母はいつも韓服を着ていた。しばしば李朝時代のころの生活がいかに苦しいものだったのかを、話してくれた。村には五つの農業用水池があった。日本人が京釜線を敷くのにあたって、池を掘って線路の盛り土をしたということを教えてくれたのも、母だった。
日本統治時代になってから、村の人々はまともな生活を営むことがでぎるようになったのだった。私の村では、独立運動系の人々を除けぱ、ほとんどの村民が日本人を尊敬していたし、敬愛していたといってよかった。村の人々のあいだで「イルボンサラムン・キョンウカタルダ」(日本人は、事理に明るい〈すべて正しい〉)という言葉がよく交わされた。
それでも村の人々が、外国人である日本人に対して屈折した感情をいだいていたことも事実だった。何といっても、韓国は外国の支配下にあったのだ。日本人のもとで働いたり、日本人と結ぶことによって成功している者は、陰で「アブチェビ」(ゴマスリ)と呼ばれた。これにはたぶんに嫉妬心理も手伝っていただろう。
日本の農務省による『韓国土地農産調査報告』によれぱ、1905年、農業生産力の高い朝鮮半島南部でさえ、反当たりの平均収穫量は、9斗のみで、当時の日本の平均反当たり平均収穫量、1石6斗の半分強であった。だが、朝鮮総督府スタート当時、産米高が約1000万石前後であったのに対し、その後年々産米高が増加し、18年後の昭和3年には1700万石を生産した。「日帝36年」の朝鮮統治で、米穀生産政策はもっとも朝鮮人に恩恵を施したものの一つであった。有史以来、年産1000万石以上を一度も超えたことのなかった朝鮮産米生産量は、昭和時代に入るとつねに2000万石を突披したのだ。それは歴代総督が、食糧生産の充実と米殻生産性の向上に並々ならぬ努力を重ね、土地改良、品種改良、耕法の改善、小作法の制定、低利融資、米穀生産奨励などを行なって増産を重ね、日本国内産米との競争によって品質向上に努めてきたからであろう。
総督府による農業政策の成功で飢饉がなくなり餓死者がいなくなった事と、近代医療・衛生制度の導入で伝染病死が減ったうえ乳幼児死亡率の低下で人口が爆発的に増加していく。 (なんと植民地36年で倍増)
伝染病問題は、朝鮮半島で飢饉以上に頻繁に発生した。飢饉に続いて、連鎖的に疫病が襲いかかった。もちろん、それは朝鮮半島に限らず、中国大陸においてもそうであった。朝鮮半島では、17世紀の中葉ごろから、平均2.6年に1回の割合で疫病が大流行した。趙珠氏の『19世紀韓国伝統社会の変貌と民衆意識』198ぺージ)によれば、17世紀の中葉ごろ〜19世紀の中葉の間に、年間10万人以上の死者を出した疫病が6回もあった。1749年の全国大疫病では、死者50万人以上とも記録されている。「民乱」や「倭乱」、「胡乱」といった戦争以上に、朝鮮半島の人命を奪ったのは、ほかならぬこの疫病の大流行であった。著名な自由主義者で、植民地論者の新渡戸稲造は、「植民地経営の要は、衛生の改善にある」という植民地論を展開したほどである。
李朝は、天災と疫病のたび重なる発生をそのまま放置した。李朝末期となると、朝鮮の高官たちは、ほとんど政権争奪に明け暮れ、いわゆる「三政紊乱」‐−政治腐敗、官庁の綱紀紊乱、官吏の横暴が絶頂に達し、もはや治山、治水や疫病を退治する余力がなくなっていた。
日韓併合以前のソウル・釜山は極めて不衛生な都市だった。伝染病がしばしば起こり多くの人々が死亡した。
ビショップ夫人は「ソウルは汚ないことと臭いことでは、世界一である」と書いている。「25万人の同市民は地上に瓦または藁を並べた一階屋の下に潜り込んで生活している。いや、不潔な道路に蠢動(しゅんどう)していると形容したほうがよいだろうか。その道路は広くても二頭の馬が並ぶことができない。狭いところで一人の荷を担いだ者が往来を塞いだほどである。路傍には悪臭が芬々(ふんぷん)とする溝があり、路面は埃まみれの半裸体の子供と、獰悪(どうあく)な犬とによって占領せられている」
「市街の中心を西から東へ流れる下水道は、市中の汚水を夜に昼に絶えず城外に排泄している。そのために下水道の泥は真っ黒で幾世の昔からの濁水によって染められ悪臭を空中に放散して旅人を悩ましている」
「南山の中腹に日本公使館があるが、木造で白塗りの建物としてはあまり感心できない。その麓に日本人居留地があり、約五千人の日本人が小さな天地をつくっている。料理店もあれば、劇場もある。朝鮮人町と反対に清潔でよく整って気持ちがよい」(「三十年前の朝鮮」バード・ビショップ 1925年)
『京城の町なかでさえも、家という家はみんな額のつかえそうな低い屋根に泥ぬりの荒壁というありさま。それに道路がせまい上に、石塊出没して凹凸状をなし、そのそばの土溝(どぶ)には、たれ流しの糞尿が縦横にあふれ、汚臭紛々として鼻をつき、息もつけない。この穢路(わいろ)の奥にあった一軒の日本家が著者の借住居であった。そこへ統監府から時々書類をもって往復する小使でさえ、通るたんびに命がちぢまるといっていたくらいだから、その非衛生的穢状が察せられるであろう』
といって信じなかった。だが、たまたま小松の家で催された囲碁の会に博文が出席して、小松の話がウソではないことを知り、さっそくツルの一声で、統監官邸のある南山のふもとに、日系官吏のために官舎が建てられることになったという。
釜山で朝鮮が私に与えた第一印象は、さほどいいものではなかった。道は狭く不潔で、家屋は低くて見栄えがしなかった。日本のように人目を引く商店や、古い寺などもない。四方から悪臭が漂い、戸外にはごみが積もり、長い毛をだらりと垂らした犬が集まってきては食べ物をあさっている。あちこちに乾上った下水道があるが、そのべとべとした底ではいろんな汚物が腐りかけている。そしてその中で髪の毛の長い子供たちが遊んでいる。朝鮮の海辺の村落を通り抜け、車夫らは道がより広く比較的きれいな、日本風の市街地へ向かった……
総督府による近代医療・衛生制度の導入で伝染病死が減ったことと、乳幼児死亡率の低下で人口が大幅に増加していく。韓国人と反日左翼は総督府の植民地経営の善政を一切認めないが、これは輝かしい成果の一つではないのか?
日本統治時代に入ってから、医療衛生制度も確立された。日本が韓国を統治したあいだの輝かしい成果の一つが、病幕(ビョンマク)の設置だった。日本統治時代に入ったころでも、腸チフスや、発疹チフス、赤痢、コレラ、痘瘡が猛威を振るったために、しばしば住民の一割ぐらいが病死した。それまでは予防医学の知識がまったくなかったので、伝染病による死者がでると、その家の井戸の上に筵(むしろ)をかけたうえで、厠(かわや)を焼き払った。厠は家の外につくられていた。
日本統治時代が始まると、村単位にそれぞれの村から離れたところに、伝染病患者を隔離する病舎をつくった。多くの場合は、そのような場所にあった貧しい家を買って、改装したものだった。
それまで韓国では儒教思想のために、家で死ぬことを理想化して、家の外で死ぬことを客死(ケクサ)と呼んで、惨めな死とみなした。そこで父母や、兄弟が病幕で死ぬことがあると、日本人が自宅で死ぬ権利を奪ったとして憤慨するようなことさえ多かった。
しかし、病幕と国立、あるいは道立病院がつぎつぎと建てられるようになると、患者が隔離病棟に収容されるようになったので、伝染病は姿を消すようになった。私たちの村では病幕が、私が小学五年生になったときまであった。
朝鮮半島の近代医学の普及は、きわめて遅かった。朝鮮総督府以前には、大韓帝国政府樹立後、ソウルに京城医専、同付属病院の創立を皮切りに、公済病院、赤十字病院が次々と設立されたものの、いずれも規模が小さかった。本格的近代医学医療制度の導入は、朝鮮総督府の時代からで、この三院の統合、拡充と大韓医院の設立からである。大韓医院はやがて発展して京城帝大付属病院となり、朝鮮半島の近代医学、医療発展の中心的存在となった。1909年から慈恵医院の官制が発布され、その後、地方の医療制度は、清州、全州から、順次各地方で確立され、医師の養成と疫病の防止に全力が注がれた。さらに150万円の下賜金から済生会がつくられ、李朝以来の階級制度の廃止とともに、各道から市町村にいたるまで、地方の隅々まで医療制度が整備され、賎民でも国民として、近代医療の恩恵を受けるようになった。
各開港都市と国境都市は、1910年から厳しく防疫、検疫を実施し、疫病の進入防止に積極的に取り組んだ。コレラ、天然痘、ペストなどの大流行は、1918年から20年の大流行を最後に、やっと猛威を振るわなくなり、とくにコレラの大流行は、この年以降なくなり、乳幼児死亡率が激減した。中国大陸では1930年代に入ってからも、相変わらず疫病が全国各地を襲いつづけていたのとは別に、疫病の朝鮮半島侵入が医療制度の普及によって阻止された。まさしく天国と地獄ほどの隔世の感である。朝鮮半島が大陸からの疫病襲来を阻止したのは、朝鮮総督府時代からであると言える。
朝鮮総督府の統治は、このほかならぬ近代医学による衛生環境の改善と疫病の僕滅によって、インフラの整備と同様に、いやそれ以上に、朝鮮半島の生命保全、韓民族の繁栄に大きな貢献をなしえた。今日、この分野に関してあまり語られていないのは、じつに驚きである。朝鮮総督府はインド、中国から朝鮮半島にわたって、猛威を振るっていたハンセン病退治のために、救ライ事業として世界的規模を誇り、もっとも完備された施設を持つ小鹿島更生園をつくって、6000人以上を収容した。このような破天荒的な努力について、朝鮮の近代史研究者は、なぜ語ろうとしないのであろうか。
朝鮮人人口の推移、急激な増加がみてとれ李朝時代と比べると倍増している。 総督府は農地開拓を進めて農業人口を増やしたが、それ以上に人口が増加した。
ココ重要です。朝鮮人渡日の原因を強制連行と土地収奪に求めている反日連中は、人口の爆発的増加を無視しています。HPや関連書籍を読む時ぜひチェックしてみてください。
人口の増加は日本だと商業・工業の発展で吸収していったが、朝鮮の場合過剰人口は半島外に活路を求めた。北部の者は満州へ農業移民となり、南部の者は日本へ賃金労働者として移り住んだ。これが現在の在日コリアン1世である。
農家の過剰人口である土地を相続できない次男三男は、分家の手段として日本での労働・移住を選んだ。
(分家する場合)零細農の次男以下の場合は、親から所有地を分譲されることのないのは言うまでもなく、結婚費用も出して貰えないので、大体10年近く朝鮮内で年雇生活をして得た貯蓄で結婚をし、雇い主などから若干の土地を借入れて独立するのが唯一の分家の方式であった。しかし用地難に加えて主従関係が昔のようでなくなったので、年雇から小作農に独立という途は狭き途となった。
そこへ日本の労働市場の開放は小農の分家方式の新しいひとつとなった。……分家方式をとった日本への移住者も渡航当初は大部分が無配偶者であったが、それが結婚費用を稼いで妻を迎えたのである。……彼らは日本に分家の手段だけでなく定着の場所をも見つけているのである。これまでは、日本で多少の貯蓄をすれば故郷に帰って、結婚と分家をし、また土地を購入することを目標にもって海を渡ったものであるが、今やこのような夢はすてている。
生活意識が高まるにつれて、朝鮮農村がその安住の地でなくなるのである。若い者は、日本へ出発の当初から、出稼ぎ心理というより、自由な社会生活を求める移住の気持ちが強く作用している。これは次男三男に限らず、夫や長男の場合においても、妻子を同行ないし呼び寄せたり、あるいは日本で結婚して定着する傾向が強くなっているのは否めない事実である。……日本へ渡航した者で昭和8年ごろから帰村者の減少傾向が著しい。これも同じく出稼ぎより移住へを示すものであろう。
日本でも生活意識の変化で、若者が農村の生活を嫌って都会へ流出していった。同じようなことが朝鮮でも起こったのであろう。
農家を相続できない次男三男が仕事を求めて日本に渡って来たというのは、在日1世の平均渡日年齢が19.1歳と非常に若いことからも推測できる。
「土地を奪われた農民が仕事を求めて日本にやってきた」という主張が間違っているというのは、土地を所有していたと考えられる壮年層の渡日がほとんどないことからも推測できるのではないだろうか。(もっとも、この調査時点(1982年)で亡くなっているのかもしれないが)
朝鮮人の内地移住は、朝鮮では食べていけない貧困層の過剰人口が内地へ押し寄せてきたものである。
通常、民族の移動は、窮迫と誘引に原因し、その窮迫は食物の欠乏、または実際的に同一に帰するところの人口過剰の結果による。朝鮮人一般労働者の日本内地移住の原因もこれであり、具体的には、左の三点に帰する。
そして、さらに同書は「農村の過剰人口の流出は、朝鮮だけの現象ではなかった。日本内地の農村においても、その増加人口を養うことができず、働き盛りの者は、都市や鉱工業地帯に流入していた。朝鮮人の日本内地流入は、朝鮮を含めた日本国家内の一社会現象としての視野に包摂し得るものであるが、また、それと同日に談じ得ない特殊な民族社会の背景があった」という。
…大正中期以後になって、数多く我が国に移住するようになったが、その主な原因の一つは、朝鮮本土の人口増加であった。日本統治が開始された明治43年末に約1300万人であった朝鮮の人口は、終戦前には3000万人に近い数(朝鮮本土に2500万人強、日本内地、満州、華北、ソ連などに400万人強)に達していた。特に南朝鮮における農村の過剰人口が、鉱工業の未発達な朝鮮内では吸収されないために、低賃金労務者として日本内地に渡航することとなった。その移住は、初めは近距離のための出稼ぎ的な往来から、漸次、都市・工場・炭坑地帯に定住するようになり… と述べている。
反日コリアンは、朝鮮人が日本内地で働くことを余儀なくされたのは、総督府が朝鮮の商工業発展を抑圧していたから雇用場所がなかったためだと言うが、元々李朝時代から商業・工業とも振るわなかった。急に産業化できるわけがない。日本の江戸時代のような繁栄を想像していたとすると大間違い。
日清・日露戦争当時の朝鮮というのは、底知れぬ貧乏国でした。単に近代産業がないというレベルではありません。農業生産にしても、とうてい日本とは比べ物にならないものだった。「春窮(しゅんきゅう)」という言葉があるくらいで、秋に収穫した米も春を迎えるころになると尽きてしまうというのが珍しくなかった。収奪なんてできるわけがない。
また当然、商業なども発達していませんでした。日清戦争の後に、陸軍軍人であった柴五郎が朝鮮を旅行したときに驚いたのは、朝鮮には銀貨も紙幣もなくて、銅銭だけがあったということでした。つまり、当時の朝鮮には高額の貨幣が必要なかったのです。そして、その銅銭もシナから輪入した銭だった。
朝鮮人は、科学技術の分野においてほとんど進歩のあとを見せていないが、産業の知識においては、なおさら遅れている。この国では、数世紀もの間、有用な技術は全く進歩していない。この立ち遅れの主な原因の一つに、人々が全ての手工業を各自の家でまかわなければならず、必需品を自分の手で作らなければならないという現実がある。
農民たちは、自分の手で衣服・わらぐつ・籠・ざる・箒・綱・紐・ござ・それに必要な農具を作る。一言にして言えば、自給自足しているのである。彼らはもっとも単純で原始的な方法に満足しているので、決してめざましい熟練にまで達することはない。
特殊な道具を必要とし、その道具を使用するのに、徒弟期間の置かれた職業にのみ特別な職人がいる。しかしこの場合でも、一つの定まった仕事場だけで働く職人は稀である。普通彼らは雇い主の所まで道具を担いでいき、そこでの仕事が終わればまた別の仕事を捜す。設備が必要なはずの者でさえ、一定の場所に留まることがない。たとえば陶工は、薪と粘土が自分の好みに合う所に居を定め、そこに小屋と窯を作り、近隣の人のために雑器や土壷、時に大きな容器を作ったりするが、薪がなくなればまた別の所へ稼ぎ場所をかえる。鍛冶屋も同じ行動様式で採鉱が非常に困難になるとそこを離れて行く。したがって、大きな工場や本格的な採掘場・その名に値するほどの作業所などできはしない。簡単に風に吹き飛ばされて、雨が漏れやすい継ぎ目の悪い板小屋。それにひびが入って壊れそうな窯や炉、これが全てである。したがって利潤はほとんどない。金のあるような人はこのような産業へ投資しようとは考えもしない。
朝鮮の国内商業がほとんど発達していないことは容易に結論づけることができる。自分の家に店を開いている商人はごくわずかで、ほとんど全ての取り引きが市で行われている。また商業の発達に大きな障害になっているものの一つに不完全な貨幣制度がある。金貨や銀貨は存在せず、流通しているのは銅銭しかない。そのため相当量の支払いをするためには、一群の担ぎ人夫が必要となる。というのは、200フラン分の銭が1人分の荷物になるからである。北部地域ではこの貨幣すら流通していないのである。
商取引におけるもう一つの障害は、交通路の惨めな状態である。この国は山岳や峡谷が多いのに道路をつける技術はほとんど知られていないのである。
サンフランシスコ講和条約発効以後大韓民国からの不法入国が在日朝鮮人の親戚を頼るなどの形をとって行なわれたが、その実数は把握できない。検挙された者の数のみを表7に示すが、密航に成功した者がどれだけいるか定かではない。
成功したものは後になって特別在留という形で在留を許可されろケースもあるが、不法入国のままの者もいると思われる。
隣国韓国から日本には実に容易に行けるので、密航の取り締まりは簡単にはいかない。夜の日本海には大小無数の漁船が浮かんでおり、海上保安庁の係官は挙動不審の船を彼らの勘でかぎ分け、その船のみを取り調べるという。
しかしながら、密入国者が日本で生活を続けるためには彼らを援助する親戚・知人が必要であり、また日本語能力と関わって働く場所も限定されるので、密航者家族の生活は勿論のこと、単身者での生活も容易でないことが想像される。
密入出国をしたまま登録をしていない朝鮮人がかなりいると見られているが、警視庁は約20万人ともいわれ、実際どのくらいいるかの見方はマチマチだ。
韓国から日本に逃亡してくる者は月平均五、六百人もある。昭和二十一年から昨年末までに密入国でつかまった者が五万二千人、未逮捕一万五千人で、密入国の実数はその数倍とみられる。
日本敗戦による「解放」の喜びもつかのま、済州島は大混乱の予兆をはらみつつあった。8月15日以降、日本本土のほか戦前の樺太や満州、南方などに徴用でとられたり移住したりしていた人たちが、一斉に帰郷してきたのである。15万人の島内人口は、あっというまに倍以上の30数万人に膨れ上がった。香川県ほどの広さの、痩せた火山島には、彼らを養う余地などどこにもなかった。食糧事情は、目に見えて悪化した。日本の植民地下では許されなかった買占めや売り惜しみが横行した。敗戦国・日本に見切りをつけて帰ってきたところが、故郷の窮状たるや日本どころではないではないか。やむなく日本にまた引き返していく人々が、皮肉なことに「解放」の翌年あたりから急増する。これに追い打ちを掛けるように、1948年から49年にかけて、済州島史上最悪の惨事が起きた。島全体が戦場と化して、虐殺と放火と強制移住に覆い尽くされた、いわゆる「済州島4・3事件」である。(島民3万人が殺された)
逃げ場は日本しかなかった。命がけの選択の結果が日本への密航だった。彼ら密航者たちは『潜水艦組』と称され、近年の中国からの不法入国船と同様の小舟や漁船で、着の身着のまま日本に辿りついている。『潜水艦組の1人』という50代のある男性は、日本人の『常識』とは逆のことを私に告げた。
『いや強制連行で来て、今もいるという人は非常に少ないです。強制連行で来た人たちは、軍需工場なんかに徴用された人も、密航で働いた人も、戦後かなりの人が帰っているか亡くなっているんですよ』
次の2点を明記しておきたい。強制連行された朝鮮人のほとんどは、戦後間もなく日本政府の計画送還で帰国していること。在日1世の大半は、戦前から日本に住みつづけているか、戦後、密航できたのかどちらかであるということ。これらは研究者の間ではすでに定説となっているのだが、日本人一般には正反対の言説が『事実』であるかのように漠然と信じ込まれてきた。その最大の原因は日本のマスコミの認識不足だが、在日の特に知識人が往々にして『私たちは無理やり連れてこられた』といった言い方をしてきたことにも一因がある。 …だが『無理やり連れてこられた』といった表現には。明らかに強制連行のニュアンスがこめられている。日本人側が在日についてあまりにも知らないことが問題なのは言うまでもないが、在日側もこうした表現をいわば"切り札"にして日本人との議論を断ち切ってしまう場合が、ままあったのではなかろうか。
では、次に<ドンブリ組>の実態論に移ってみることにしよう。一体に、<ドンブリ組>の大半が済州島出身ということは何を意味するのか。このことは済州島を故郷に持つ在日朝鮮人が大阪市(とりわけ生野区)を中心に9万人にのぼることと無関係ではない。日常性のひだに裂けた暗闇から日帝時代<君が代丸(大阪―済州島航路の客船)>に乗船していち早く日本に「金儲け(トンボリ)」しに来なければならなかった歴史性が浮上する。日帝時代の生活苦という鬼神が解放後なお跋扈し済州島の人間をして「金儲け(トンボリ)」するべく日本にかりたてている。たいがいは大阪市(とりわけ生野区)を中心に偏在する縁故を頼っての密入国だ。もっとも、<ドンブリ組>の密航目的は「金儲け(トンボリ)」だけに限定されるものではない。「金儲け(トンボリ)」を密航目的のその一つとして次にその他の目的を列挙してみる。
そのふたつ。「1948年4月、アメリカの強行による南朝鮮だけの単独選挙、単独政府樹立に反対して立ち上がった済州島4・3武装蜂起」(金石範「在日の思想」)が動因で引き起こされた虐殺から逃れた「難民、亡命者といった性質」をもつ密航。このケースでは解放された祖国に帰ったものが多数ふくまれている。日本への逆流現象。金石範氏は「現在の在日朝鮮人のあり方を規定したともいえるだろう」(「在日の思想」)と指摘している。
そのみっつ。アメリカのベトナム侵略が泥沼化したことで韓国政府がベトナム派兵を決定した1965年以降現れた「徴兵忌避」を目的とした密航。ほかに「離散家族の再会・同居」「思想的に拘束を受けない日本の大学での勉学」「病気治療」など。
さて、「法務省の推定では、数万人の密航者が、息をひそめるように生活しているといわれる」(朝日新聞84年3月7日「検証」)。生野区およびその周辺で育った在日朝鮮人の記憶にはなんらかの形で<ドンブリ組>の存在が影絵のようにゆらいでいるはずだ。ここではいくつかの記憶を発掘してみたい。(後略、密航者の来日動機や生活の実態が4例記されている)
外国人登録証を所持している<トロク組>といえども不正な手段で入手した密入国者もいる。以下、佐藤勝己著「在日韓国・朝鮮人に問う」1991年亜紀書房発行から 『ゆうれい登録証が大量に存在し、ある時期、対馬に登録証の製造工場があったといわれている… 敗戦直後日本から帰国した朝鮮人が再度日本に手続きなしで入国、それらの人に登録証が裏で売買された』
『本名、本籍や本当の生年月日が外国人登録と異なることが在日同胞の場合、多々あります』 『実は私も朝鮮学校に通っていた時代には「尹(ユン)」という氏を使用していました。戦後、父が密航で日本にやってきて、他人の外国人登録を買ったためでした。そのため、親族と会うときは「洪(ホン)」の氏を使用し、学校では「尹」の氏を使用しました』
「わたしは今日まで自分が生きることで精一杯でした。とても在日僑胞のことまで考えることかできませんでした。これが韓国の現実だと思います。しかし、在日韓国人は、総聯(在日本朝鮮人総聯合会)がいやなら民団(在日本大韓民国居留民国)、民団がいやなら中立、それがいやならカネもうけと自由に動いている。北であれ南であれ、本国にいる人にそんな自由はなかった。私たちがこういう人たちを信用できるでしょうか」。
次に在日韓国人が攻撃されるのは、出身身分だ。韓国人によれば「朝鮮半島で食いつめて、裸同然で日本に行かなければならなかった、"キオッ(ハングルでKの音)の字も知らない"(いろはのいも知らないに相当する)ような連中」とか、「朝鮮半島の南端の慶尚南道、全羅南道にいた貧農」が、在日韓国人になったのだという。朝鮮半島で食いつめた、無学で無教養の貧乏人が、なんとか食いつなごうと日本に渡って、それが在日韓国人の大半だというのである。在日韓国人そのものをハナから蔑視しているのである。韓国人が在日韓国人を非難するときには、「強制連行」した悪夢のような日帝の存在も忘れてしまうらしい。さらに「食いつめ」者にした犯人である日帝による「土地搾取」も非難されない。しかし、在日韓国人は韓国でそうはいわれながらも、日本にたいしては、「日帝によって、軍人として、また軍需工場や軍事施設現場の労働者として、朝鮮半島から強制的に犯罪者のように連行された人と、その二世、三世である」と説明している。
その「貧農」で「食いつめ」た「キオッの字も知らない」連中が、日本の経済復興とともにお金を稼ぎ、故国を訪問しだしたのである。韓国人には、「パチンコ屋や食い物屋(社会的評価が低い)のような商売をして、金をつくり、それを見せびらかさんばかり、昔の恨みをはらすかのように使いまくる」ように見えたのであり、じっさいに在日韓国人が、「団体旅行で、凱旋するかのように祖国へきて、礼ビラを切り、女は買うわ(キーセン観光か)、バクチはするわ」したのである。在日韓国人は「日本人よりずっと品がない」と思われたのである。「パチンコ屋や食い物屋のような商売」を例にだすことで職業差別もしている。
しかも、「韓国国籍をもちながら祖国存亡の6・25動乱(朝鮮戦争)のとき、だれひとり馳せ参ずるものはなかった。だれひとりだよ。のみならず、日本に動乱ブーム(朝鮮戦争の特需景気)がおこり、君らはわれわれの犠牲のかげで巨利を博した。そして、母国に遊びにきては、これ見よがしに札ビラを切る。生命をはって祖国を守り、貧苦に耐えてきた同胞の目の前でだ。判るかね、君たち僑胞にたいするわれわれの気持ちが」と、韓国人が語っているように、朝鮮戦争で苦境におちいっていたとき、在日韓国人は、戦争に参加することなく、お金もうけにいそしんでいたと、考えてるのである。
朝鮮戦争のとき、在日韓国人は本当に、誰一人として駆けつけなかったのであろうか。駆けつけたという証言を紹介しておこう。
「大学生の時に、韓国で動乱が始まったわけです。朝鮮戦争と日本でいわれていますね。それで私は、韓国軍に志願兵として半島にわたったんですよ。在日僑胞志願兵として、最初の第一陣の百三十七名の一人だったんです。結局、日本からは六百人くらい志願でいったんですね。戦死したり、行方不明になったのが三分の一、日本にまた戻ったのが三分の一ですね。この手はその動乱の時に指をとばされたんですよ。名誉の負傷というやつですよ」。
しかし、事実かどうかの問題ではない。在日韓国人は「母国の苦しみをネタに金をもうけた」と多くの韓国人は思い込んでいる。
1925年、山口県警察部特別高等課が関釜連絡船を利用して日本に上陸した朝鮮人労働者の所持金を調査したところ5円未満の所持金しかない者が、実に66.6パーセントであった。5円未満とは、関釜連絡船の往復運賃にも満たない金額である。さらにこの調査では、なんと無一文の渡航者が7.6パーセントもいたのである。日本語も満足に話せずお金も一銭もない貧乏な朝鮮人が、日本へ出稼ぎにやって来ていたのである。1926年、朝鮮慶尚道警察部が日本に出稼ぎに出た朝鮮人労働者の調査をしているが、男性労働者の1日の日給は平均して1円40銭であった。 (「関釜連絡船 -海峡を渡った朝鮮人-」1988年 金賛汀 朝日選書から要約)
『…生活水準がそういう状態ですから、当時の朝鮮では、子供を学校に行かせるというのは大変なことだったのです。 …ですから在日朝鮮人の一世たちは、ほぼ7〜8割が文盲です。そいう状況ですから、植民地時代を生きた朝鮮人の貧困が、無教育、非衛生、道徳的堕落というものと深くつながっているのです。日本人からみると、朝鮮人は「民度」が低いことになり、民族差別の一つの原因となるわけです。なんとなく薄汚くて、貧しくて… おのずから差別につながっていくわけです』 (「日本による朝鮮支配の40年」 1992年 姜在彦 朝日文庫)
祖国が存亡の危機にあった朝鮮戦争を傍観し平和な日本で生活していたことが、在日の本国人に対するコンプレックスになっているようだ。在日が本国で蔑まれても彼らに頭が上がらない理由が分る話である。また彼らが日本に居住している言い訳を、戦時中の強制連行や韓国併合後の土地調査事業で農地を追い出されて仕事を求めてやむなく日本に渡ってきたと、自らの意思によるものではなく半ば強制されたものであるとする他律的な来歴に執拗にこだわるのは、このことも大いに関係しているのだろう。それにしても、この韓国人と下記の日本人裁判官の在日に対する認識の違いには驚くばかり。
永住外国人の地方参政権問題で、『立法措置を講ずれば憲法に違反しない』とする平成7年2月の最高裁判決にかかわった前最高裁判事は、ある新聞に次のような回想録を寄せている。
『在日の人達の中には、戦争中に強制連行され、帰りたくとも帰れない人が大勢いる。「帰化すればいい」という人もいるが、無理矢理日本に連れてこられた人達には厳しい言葉である』
判決の中のこの部分は傍論であり、判例拘束性はないが、こうした歴史認識から導き出されたとしたら、それは間違っていると言わざるを得ない。
反日プロパガンダが最高裁判所にまで浸透しているのか、それともただの無知なのか。いずれにせよ司法の由々しき事態だ。

 

[ 661] 「呪われたダイヤモンド」の来歴がハイテク調査で明らかに | WIRED VISION
[引用サイト]  http://wiredvision.jp/archives/200502/2005021506.html

このダイヤモンドについては、以前からフランスとの関連が推測されていたが、今回の調査により、もとになった『フレンチブルー・ダイヤモンド』の形状との整合性や、再カットの手法が明らかになったと、スミソニアン協会宝石部門の学芸員、ジェフリー・ポスト氏は説明する。
紺碧に輝くホープダイヤモンドは、スミソニアン協会の国立自然史博物館の宝石コレクションの中でも目玉となる存在だが、持ち主に災いをもたらすという噂でも有名だ。それでも、このダイヤモンドは、これまで数百万人もの見学者を集めてきたのだから、スミソニアン博物館にとっては幸運を呼ぶ存在だと言えるだろう。
今回の調査では1年をかけ、フランス革命前の宝石のスケッチ画、フランス王家の財宝に関する科学的な計測結果、さらにはコンピューター・モデルを用いて、ホープダイヤモンドを新たに分析し直したと、ポスト氏は説明する。
「10年前だったら、ホープダイヤモンドをこうした形で分析することは不可能だっただろう。ハイテクを駆使した新たな手法で分析するたびに、われわれのコレクションに関する新たな事実が明らかになるのは、まさに刺激的だ。このホープダイヤモンドでさえ、その秘密の一部をしぶしぶと打ち明けつつある」とポスト氏。
今回の分析結果は、ホープダイヤモンドの起源は1668年にインドで発見された112カラット強のダイヤモンドだとする見解を裏付けるものだ。この宝石はフランスのルイ14世に買い取られ、カットされて67カラット強のフレンチブルー・ダイヤモンドとなった。フレンチブルーはフランス革命の最中に盗まれている。
フレンチブルーの盗難からちょうど20年が過ぎ、時効が成立した後になって、1つの大きなブルーのダイヤモンドがひっそりとロンドンで売りに出された。このダイヤモンドはその後、ヘンリー・フィリップ・ホープに買い取られる。
ホープダイヤモンドは最終的に、宝石商の米ハリー・ウィンストン社からスミソニアン博物館に寄付された。現在では45.52カラットになっているが、それでもブルー・ダイヤモンドとしては世界最大だ。
今回の分析をまとめたのは、ポスト氏と、技術者で宝石研磨士でもあるスティーブン・アタウェイ氏が率いる研究チームで、宝石研磨の専門家、スコット・サッチャー氏やナンシー・アタウェイ氏も調査に参加した。
フレンチブルーは現存しないものの、フランスにこのダイヤモンドの非常に詳細なスケッチ画が残されており、コンピューター・モデル作成の準備段階ではこれが役立ったと、ポスト氏は語る。
また、1700年にフランスの科学者たちが王家の財宝の中からいくつかの宝石を分析し、それぞれの比重をはじめとする詳細を計測したデータも残っていた。
現存する他の宝石に関する当時の分析データが非常に正確だったことから、研究チームは、フレンチブルーについてのデータもおそらく同じくらい正確だろうと考えたと、ポスト氏は電話取材の中で語った。
スケッチ画と昔の分析を利用してフレンチブルーのコンピューター・モデルを作成したうえで、ホープダイヤモンドを計測し、そのデータをコンピューターに投入したところ、「ホープダイヤモンドをフレンチブルーの中にほぼぴったり収めることができた」とポスト氏は説明する。
「実は完璧に収められるのはある特定の方向だけだということが判明したが、その向きにぴったりはまっているのを見れば、どうして今のような姿にカットされているのか、納得できるはずだ」とポスト氏。
「フレンチブルーの角を切り取り、底になる面のカットの角度を少しだけ変えることで、ホープダイヤモンドを作り出したのだ」とポスト氏は述べる。
実際、現存するホープダイヤモンドの一部には、フレンチブルーのカット面がそのまま残っている可能性もある。

 

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