芭蕉とは?/ ディック
[ 54] 松尾芭蕉 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B0%BE%E8%8A%AD%E8%95%89
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伊賀国(現在の三重県伊賀市)で、松尾与左衛門と妻・梅の次男として生まれる。松尾家は、農業を業としていたが、松尾の苗字を持つ家柄だった。出生地には、赤坂(現在の伊賀市上野赤坂町)説と柘植(現在の伊賀市柘植)説の2説がある。これは、芭蕉の出生前後に松尾家が柘植から赤坂へ引っ越しをしていて、引っ越しと芭蕉誕生とどちらが先だったかが不明だからである。 若くして、伊賀国上野の侍大将・藤堂新七郎良清の嗣子・主計良忠(俳号は蝉吟)に仕え、2歳年上の良忠とともに北村季吟に師事して俳諧の道に入った。1666年に良忠が歿するとともに仕官を退く。 天和2年(1682年)の天和の大火(いわゆる八百屋お七の火事)で庵を焼失し、甲斐国谷村藩(山梨県都留市)の国家老高山伝右衝門に招かれ流寓する。しばしば旅に出て、『野ざらし紀行』・『鹿島紀行』・『笈の小文』・『更科紀行』などの紀行文を残した。1689年、弟子の河合曾良を伴って『奥の細道』の旅に出、1691年江戸に帰った。その最期も旅の途中であり、大坂御堂筋の旅宿・花屋仁左衛門方で「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の句を残して客死した(よく辞世の句と言われているが結果論である。「病中吟」との前詞があり、辞世とは当人も意識していなかった。なお、「秋深き 隣は何を する人ぞ」は、死の床に臥す直前に書いた句である)。享年51。生前の「(墓は)木曾殿の隣に」という遺言により、大津膳所(ぜぜ)の義仲寺(ぎちゅうじ)にある木曾義仲の墓の隣に葬られた。弟子に蕉門十哲と呼ばれる宝井其角、服部嵐雪、森川許六、向井去来、各務支考、内藤丈草、杉山杉風、立花北枝、志太野坡、越智越人や野沢凡兆などがいる。 忌日である10月12日(現在は新暦で実施される)は、桃青忌・時雨忌・翁忌などと呼ばれる。時雨は旧暦十月の異称であり、芭蕉が好んで詠んだ句材でもあった。例えば、猿蓑の発句「初時雨猿も小蓑を欲しげ也」などがある。 「古池や蛙飛込む水の音」(柿衞文庫に直筆の短冊が現存する)、「荒海や佐渡に横たふ天の河」、「夏草や兵(つはもの)どもが夢のあと」などが有名である。 芭蕉の作と言われている「松島やああ松島や松島や」は、実際は江戸時代後期の狂歌師・田原坊の作とされている。 『奥の細道』の旅の初め、千住に滞在した日数が多いのに『奥の細道』には消息がないため、隠密としての任務を受けに行っていたのではないかとの憶測と、出生地伊賀との関係、当時の日本人としては異常な速さの歩き方などから、忍者ではなかったかという在野の説もある。 芭蕉の終焉地は、御堂筋の拡幅工事のあおりで取り壊された(ただし、その跡は、現在の大阪市中央区久太郎町4丁目付近に石碑がある)。 忍者であるという説は、芭蕉が伊賀上野の生まれであるため、盛んに論じられてきた。古くから俳諧師は旅をして暮らしたことから、情報収集をともなったと言われている。 また、日程も非常に異様である。黒羽で13泊、須賀川では7泊して仙台藩に入ったが、出発の際に「松島の月まづ心にかかりて」と絶賛した松島では一句も詠まずに一泊して通過している。この異様な行程は、仙台藩の内部を調べる機会をうかがっているためだとされる[2]。 また、『曾良旅日記』には、仙台藩の軍事要塞といわれる瑞巌寺、藩の商業港・石巻港を執拗に見物したことが記されている(曾良は幕府の任務を課せられ、そのカモフラージュとして芭蕉の旅に同行したともいわれている) [3]。 |
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