三船とは?/ ディック
[ 1638] 三船敏郎 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%88%B9%E6%95%8F%E9%83%8E
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元俳優で映画プロデューサーの三船史郎は本妻との、女優の三船美佳は内縁の妻(女優の喜多川美佳)との間にできた子供。 中国・山東省青島で貿易商、写真業を営む三船徳造の長男として生まれる。父は秋田県鳥海町出身。若い頃から良い意味でも悪い意味でもワルだったと言う。その後大連に移り住み、大連中学卒業後、甲種合格で兵役につく。満州陸軍第七航空隊に入隊。写真の経験・知識があるということから写真部に配属され航空写真を扱う。後年もカメラに対するこだわりは深かったという。この時期に知り合った鷺巣富雄とは、その後生涯にわたる交友関係となる。熊本の特攻隊基地で終戦を迎える。 東京の東宝撮影所撮影部にいる先輩である大山年治から「戦後、仕事に困ったら尋ねてきなさい」と言われていた為、カメラマン助手の仕事を依頼。履歴書を提出したところ、「何かの手違いで」東宝第一期ニューフェイス募集に回されていたため、面接を受けることになった。人を食ったような態度(笑ってみて、と審査員に言われた時「面白くもないのに笑えませんよ」と答えたという)で不合格になりかけたが、山本嘉次郎監督が審査委員長をしていた中、山本の弟子ともいえる黒澤明がたまたまそれを目撃した。当時の審査委員会は監督など映画製作の専門家と労組代表の半数ずつで構成されており、黒澤は「俳優の素質を見極めるのに専門家と門外漢が同じ一票ではおかしい」と抗議。結局山本が「彼を採用して駄目だったら俺が責任をとる」と発言し、なんとか及第となる。太々しさの中に見える大器の可能性も買われて補欠採用され、思わぬ形で役者の世界に入った。 1947年に黒澤が脚本、黒澤の盟友・谷口千吉が監督をつとめた映画『銀嶺の果て』でデビュー。雪山で遭難する3人のうちの一人を演ずるが、2人目は志村喬だった。翌1948年にはデビュー3作目として黒澤監督『酔いどれ天使』に、破滅的な生き方をするチンピラ役で登場した。主演は医師役の志村だったが、ぎらぎらした野性味あふれる演技で圧倒、一躍人気が上昇する。 その後、黒澤作品には欠かせぬ存在となり『酔いどれ天使』から『赤ひげ』までの16年間で出演しなかった黒澤映画は『生きる』1作のみである。現代劇、時代劇問わぬ黒澤映画の顔であったが、黒澤との確執も伝えられた。三船の死後、黒澤は「会って、三船君、本当によくやったなあ、と褒めてあげたかった。あんな素晴らしい俳優はもういません」と悔やんでいる。ちなみに、三船がこの世を去った半年後に黒澤もこの世を去っている。 晩年は山田洋次監督『男はつらいよ 知床慕情』(1987年)の頑固者の老獣医師や、市川崑監督の『竹取物語』(1987年)の竹の造翁など、渋い演技を見せた。撮影に入る前に台詞・演技を全て体に覚えさせ、撮影に台本を持参しないことも多い、という高いプロ意識でも知られた。 私生活では、1950年に、東宝第一期ニューフェイスで同期だった女優・吉峰幸子と結婚。その後、女優・喜多川美佳との交際が発覚して幸子夫人と別居。実態は家庭内暴力に悩まされた幸子夫人により、三船が追い出された形だったが、本心は三船の改心を望んでいたという。しかし、三船側より離婚訴訟が起こされるに及んで、家庭内の振る舞いが暴露されることになり、そのイメージが大きく低下した。この間、内縁関係にあった喜多川との間にもうけた娘が現在の三船美佳であるが、美佳とかなり年が離れているため、親子というよりはむしろ孫と祖父に見られる事も多かったと言う。不倫相手の名前である「美佳」を子供にそのまま付けるという皮肉な結果となった(ただし喜多川美佳という名前は本名ではない)。その後1992年に心筋梗塞で倒れたのをきっかけに、三船は正妻のもとに戻った。 1962年には三船プロダクションを設立し、翌年には映画『五十万人の遺産』を自らの主演で初監督。映画『黒部の太陽』(石原プロモーションと合同で制作)のほか、『桃太郎侍』『荒野の素浪人』『大忠臣蔵』などテレビドラマを制作した。しかし、1979年に内紛で分裂し、その後は振るわなかった。 達筆で知られ、自社の事務所の掃除も自ら進んでする(訪問者が三船本人と気付かなかったという逸話がある)程の掃除好きだった。 酒癖が悪く、飲むと性格が一変した。酔ってタクシー内で安藤昇に殴りかかり、逆に殴り返され、顔が腫れて翌日は撮影にならなかったこともある。 娘の美佳が『ダウンタウンDX』に出演した際、彼のプライベート映像が放送され、美佳にオヤジギャグを言う姿も披露された。 1980年のTBS正月特番ドラマだった『関ヶ原』の宣伝の一環として『8時だョ!全員集合』にゲスト出演、『関ヶ原』出演時と同じ鎧兜を付け、「石田家軍師島左近」として番組冒頭のコント劇に出演し、同じく戦国武将役のいかりや長介率いる部隊の窮地を救う役を演じる。その後、いかりやと二言三言の会話を交わし、三船が「カラスの歌を聞きたい」と言ったのでいかりやは志村けんを三船の前に呼び出して「♪カラスの勝手でしょ〜」を歌わせた後、舞台袖に退場したが、なんと嬉々とした表情で同番組名物だったヒゲダンスを披露しながらの退場であった。世界的な大スターがザ・ドリフターズのギャグを演じたことに対し、客席からは笑いではなく深いどよめきが起きた。これは事前の打ち合わせにはない全くのアドリブだったようで、いかりやは舞台上で「ああいう人が、ああいうことをやるなんて…」と真顔で驚嘆した。 三船は冒頭コント劇の後で「早口言葉」コーナーにも出演し、真顔でドスの効いた声で「生麦生米生卵…」と歌い、さらには「生麦生米生ビール!」とボケて、一同を爆笑の渦に巻き込んだ。 三船が逝去した時、フランス共和国とイタリア共和国の国営放送のテレビニュース番組が『トシロー・ミフネの死去』をトップニュースで報じた。日本の俳優の死去が外国報道機関のトップニュースになったのは、後にも先にも三船敏郎ただ1人と言われる。 1951年に『羅生門』がヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞し、クロサワとともにミフネの名も世界に知れ渡った。1961年に初の海外作品『価値ある男』(メキシコ映画)ではメキシコ人役で主演。その後の海外の名優との競演は、以下の作品などが挙げられる。 1976年『ミッドウェイ』チャールトン・ヘストン、ヘンリー・フォンダ、ロバート・ミッチャム、グレン・フォード アラン・ドロンは三船を『日本の兄』と尊敬し、自らがプロデュースするブランドの香水「サムライ SAMOURAI」の香りのイメージを、「三船敏郎を基調とした日本のサムライ」とした。またマーロン・ブランドは飛行機に乗っていた際、三船が同乗している事を知るや自分から挨拶に行ったというエピソードがあり、三船が死去した時も弔電を(アラン・ドロンと同様に)送っている。 しかし黒澤に薫陶を受けたジョージ・ルーカス監督の『スター・ウォーズ』(1977年)で、重要な役どころのダース・ベイダー役(オビ=ワン・ケノービ役という説もあったが、『ダウンタウンDX』での娘の三船美佳の証言により「ダース・ベイダー」が正しいようである)の申し出を断った逸話は有名。もっとも当時のルーカスは現在ほどの巨匠ではなく、『スター・ウォーズ』もあれほどの大ヒットになるかどうか全く予想できなかった時点(製作前)での話であることに注意する必要がある。またルーカスが「黒澤に薫陶を受けた」というのは、一人のファンとして黒澤を熱愛し影響を受けたという意味であって、当時(1970年代)のルーカスが黒澤と直接会ったり教えを受けたりしていたわけではない。オファーを受けた三船にしてみれば「知らない監督の、わけの分からないSF活劇映画」という印象でしかなかったと言われている。 その後、同じくハリウッド映画の寵児スティーヴン・スピルバーグ監督の『1941』(1979年)に日本人潜水艦長役で出演するが、興行的には失敗に終わった。その後、『スター・ウォーズ/ジェダイの復讐』(1983年)にてダース・ヴェイダーの素顔、アナキン・スカイウォーカーの役をオファーされるが、これも辞退(余談だが、出演拒否されると思ってなかった制作側は三船をイメージした商品を許諾、このため最初期のアナキンのアクションフィギュアのパッケージは思いっ切り三船顔になっている)。さらに『ベスト・キッド』(1984年)のミヤギ役を断っている(代わりに出演した日系人俳優パット・モリタはアカデミー助演男優賞にノミネートされた)。 米国産コンピュータRPGの『ウィザードリィ』には、敵役サムライの首領的存在として「ミフネ」が登場してくる。また『マトリックス・リローデッド』『マトリックス・レボリューションズ』には「ミフネ船長」なる人物も登場し、アジア系ではないが容姿の良く似た俳優が起用されている。 海外での受賞やノミネート歴は、1955年『七人の侍』で英国アカデミー賞主演男優賞(外国語)ノミネート。1961年『用心棒』でヴェネチア映画祭主演男優賞、シネマヌーヴァ金額賞。1965年『赤ひげ』でヴェネチア映画祭主演男優賞、1980年『将軍』で米国エミー賞主演男優賞ノミネート。その他、フランスの芸術文化勲章、モントリオール世界映画祭特別グランプリ、マニラ映画祭では「最もセクシーな俳優」に選ばれた事もある。 三船は多くの日本の俳優(渡辺謙や松田優作を含む)と違い、海外からの出演オファーは数え切れないほど多く、晩年においても一年で通常の段ボール箱が一杯になるほど依頼が殺到していた。三船の出演を決断させる要素は「日本人を茶化さない」、「三船プロの運営に支障をきたさない(『デルス・ウザーラ』や『スター・ウォーズ』の出演辞退はこれに該当)」、「制作サイドの誠意ある交渉」等があり、それらの条件をクリアした相手に対しては「出演させていただきます」というような誠意をもって応えた。ただし『デルス・ウザーラ』に関しては本人が自費で海外に渡航しスケジュールを調整していたと野上照代に話している(実際1972年から1975年まで海外の作品に出演していない)。 『シャドウ・オブ・ウルフ』で共演したドナルド・サザーランドは出演オファーを受けた際、三船が出演することが決まっていると聞き、脚本を読まずに出演を決めたと語っている。 なお、死後の1999年には、ミフネの演じたサムライへのオマージュともいえるデンマーク映画『ミフネ』がベルリン映画祭銀熊賞を受賞した。 ★羅生門 (1950年/※DVD発売)ヴェネチア映画祭金獅子賞、米アカデミー賞外国語映画賞、米アカデミー賞美術賞ノミネート、ナショナル・ボード・オブ・レビュー監督賞・外国語映画賞 価値ある男 (1961年、メキシコ映画)米アカデミー賞外国語映画賞ノミネート、ゴールデングローブ賞外国語映画賞 |