上原とは?/ ディック
[ 970] 上原浩治 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E5%8E%9F%E6%B5%A9%E6%B2%BB
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実父が監督を務める少年野球チーム「寝屋川アスナローズ」で野球を始める。寝屋川市立第十中学校では野球部が無かったため、アスナローズで野球を続けながら、陸上部に所属した。 東海大学付属仰星高等学校野球部では外野手兼建山義紀の控え投手だった。ラグビーの大畑大介・建山とは同級生で同じクラスだった。 大学3年時に日本代表に選ばれた1997年のインターコンチネンタルカップ決勝で、当時国際大会151連勝中だったキューバ相手に先発して勝利投手となった。 以降松坂大輔と並ぶドラフトの目玉とみなされ多くの球団が獲得に乗り出し、最終的にはメジャーリーグのアナハイム・エンゼルスと読売ジャイアンツでの争奪戦となったが、結局周囲の説得などもあり1998年ドラフトで読売ジャイアンツに1位指名(逆指名)され、入団する。 2000年7月2日の広島東洋カープ戦で右太もも肉離れを起こし登録抹消。事故や転倒なども重なり9勝7敗に終わる。 2001年4月13日の横浜ベイスターズ戦で今度は左太ももの肉離れで離脱。早期復帰を果たすも万全でなく、後半戦では右ひざの故障もあって低迷。2年ぶりに2ケタ勝利するものの、防御率は自身最低の4.02に終わる。 西武との日本シリーズ第1戦に先発し、12奪三振・1失点完投勝利の快投でチーム史上初の4連勝日本一に貢献。優秀選手賞を獲得。 シーズン後に行われた日米野球に登板、当時絶頂期であったバリー・ボンズから3打席連続三振を奪い、メジャーリーグスカウトの注目を集める。バリー・ボンズは選球眼がよく、三振をあまりしないことでも有名な打者であった。 長嶋ジャパンの一員として、アテネオリンピック野球日本代表に選出。防御率0.50で銅メダル獲得に貢献。五輪とケガで一時戦列を離れていたものの、シーズンは13勝5敗と二桁勝利もあげ、防御率2.60を記録し2度目の最優秀防御率も受賞。 しかし全体的に調子は上がらず、援護にも恵まれなかったこともあり8勝9敗で2年連続1桁勝利で負け越す。 8月15日に林昌範が故障で登録抹消した後7回西村健太朗8回豊田清9回上原浩治で健太朗、清、浩治の勝ちパターントリプルKで勝ちを伸ばした。 8月29日のヤクルトスワローズ戦では球団新記録の月間11セーブをマークした。これは1997年に横浜ベイスターズの佐々木主浩が挙げた14セーブに次ぐ記録である。 9月26日、中日ドラゴンズ戦でこれも球団新記録となる31セーブを挙げた。プロで20勝を挙げ30セーブを記録した投手は江夏に次ぎ史上2人目である。 抜群の制球力とスタミナを武器にしたテンポの良い投球が持ち味。投球の大半が直球とフォークのコンビネーションを基本とし、狙って三振を取る能力も高い。 上原は得意のフォークボールを、大小の落差・スライダー回転・シュート回転など軌道が異なるものを意図的に内外角のコースへ投げ分けることが可能で、先発として殆ど直球とフォークのみで投球を組立てられる器用さを持っている。しかし、フォークボールを覚えたのはプロに入ってからで、それまでのアマチュア時代は、典型的なスライダー投手だった。「フォークを覚えたらスライダーの投げ方が分かんなくなっちゃった(本人談)」ためプロ入り後数年にわたってスライダーを封印し、現在の投球スタイルを確立した。 彼の制球力の高さはそれが困難なフォークといえど同じである。そのためフォークを武器とする投手としては暴投も少なくなっている。これは塁上、特に三塁にランナーがいるなど暴投のリスクからフォークを使いにくい場面でも、得意の武器を失うことにならないという点で大きい。 直球は一時MAX150km/hに届こうかという速さだったが、フォームを現在のものに改造してからは140km/h前後になった。ただし、その140km/h前後のボールを各バッターが振り遅れることも多い。上原はテイクバックが小さいフォームにも拘らず、スピンが利いたボールであるため打者に実際の球速以上の体感速度を感じさせる、いわゆるノビのある球を投げるためである。 しかしそのスピンの利いた「空振りを取れるストレート」も、その投げ方はたとえチーム内にも企業秘密としている。 投球間隔の短さとストライク先行の投球スタイルから、上原の投げる試合は早く終わる傾向がある。上原相手に追い込まれると圧倒的に不利になるため、打者が早いカウントから打ちに行くことも、この傾向を助長している。1999年7月4日の横浜ベイスターズ戦では1時間59分、2005年5月10日のオリックス・バファローズ戦では2時間7分という短時間で完投勝利を挙げた。 与四球が非常に少ない反面、本塁打を打たれる傾向があるのも上原の大きな特徴である。しかし前述の通り、四球の少なさにより塁にランナーを溜めることも減るため、大きな痛手になることは少ない。 投手としては高い打撃能力も持っており、投手の打者には最も難しいといわれる速球を見事にライト方向に打ち返すなどという場面も見られる。 2007年に限り抑え投手をすることになったが、そこでも安定感抜群の活躍で優秀な成績を修めたことで、先発・リリーフの両面に高い適性を持つことを示した。 背番号の19は、大学受験に失敗し浪人生活を送った19歳の1年間を忘れないようにという意味が込められている。 自分自身を雑草に喩えた「雑草魂」という言葉は、松坂大輔の「リベンジ」と共に1999年の流行語大賞に選ばれた。「雑草魂」は鈴木啓示の座右の銘「草魂」からきている。 プライベートでは大の阪神ファンで、BRAVOでは、遠藤章造の阪神に来ないか?という質問に、行きたいけどオファーが来ない、と冗談で答えた。 同い年の川上憲伸とは互いを認め合う仲で、川上はカットボール、上原はフォークとお互いの勝負球の握り方などの情報を交換し合っている。ただし両者はペナントレースでは敵同士であるため、この件に関して一部の解説者が苦言を呈している。 黒田博樹とも仲が良い。黒田が受けた肘のクリーニング手術を受けるべきかと聞いて、「絶対にやるべき、4月に」と言われ「開幕しているじゃないですか」と笑いながら返すなど、2人の仲の良さが窺えた。2006年オフ、黒田がFA権を取得しながらも広島残留を表明した時には「メール出したんだけどなぁ、巨人に来て欲しかったんだけどなぁ」とラジオ番組でぼやいていた。 松井稼頭央とも年齢、地元が同じなことから親交がある。巨人対西武の対戦となる2002年の日本シリーズ前には、お互いに意識している旨のコメントをしていた。 選手の先頭に立ち、球団にも言うべきことははっきりと言う。旧来の伝統から、優等生的な振る舞いが求められがちな巨人の選手にあっては稀な存在であり、本人も「他の選手からもよく『ジャイアンツっぽくない』と言われますよ」と話すなど、自覚があっての言動らしい。「俺がチームの中で一番練習している」、「はっきり言って若い奴らには負ける気がしない」、「プロに入ったということで満足している奴らが多すぎる」、「ジャイアンツだ、というだけで生き残っていける時代は終わったんです」と、チームに喝を入れるような厳しい発言を多くしている。 ヤクルト戦には強く、対セ・リーグ5球団で通算防御率や通算勝利数、完投勝利数、完封勝利数のいずれも良い成績を残している。通算20勝9敗。 2007年、故障での出遅れなどから抑えに回っていたが、その年のオールスターゲーム第1戦では監督を務めた落合博満のはからいで先発に起用される。登板後のインタビューにおいて「もう先発で投げる事は無いと思っていましたから、素直に落合さんに感謝します」と語った。 本人は「対戦相手に恵まれていただけ(笑)」と謙遜するが、2006年のWBCでも2勝を挙げるなど、外国チームとの国際試合では大学時代から数えて23戦12勝無敗1セーブ、国際戦負けなしという無類の強さを誇る。アンチ応援がすさまじい「甲子園」が好き、というように逆境やプレッシャーのかかる大舞台に強い選手である。2007年12月のアジア予選でも1セーブをマーク、星野仙一は「これだけの舞台で、あんなピッチングが出来るなんてほんとにたいした男だね」と最大級の賛辞を送っている。またその言葉を表すこととしてアジア予選においての天王山である韓国戦において上原の他に岩瀬、藤川と日本を代表するクローザーがいたにも関わらず上原を守護神に任命した。そしてその期待通りそれまで毎回ランナーを背負う苦しい展開にあって9回を三者凡退に抑えた。巨人での先発復帰に伴い、2008年のオリンピック本戦では、先発とリリーフ両方での起用もありうる事を星野は示唆している。 2007年、抑えとしてチームの優勝に貢献した。抑え投手としてマジック1で迎えた10月2日、3日の対ヤクルト戦残り試合2試合のどちらかの試合で優位に進めば胴上げ投手がほぼ確約されていた。しかし10月2日の試合1点差でリードされた9回裏にチームが逆転サヨナラでリーグ優勝を決定したために惜しくも胴上げ投手になることはできなかった。 中日を迎えた2007年クライマックスシリーズ・セカンドステージでは第2戦9回表に登板。2点ビハインドの場面であり、ビハインドで救援したのは2007年シーズン初であった。中日戦はレギュラーシーズンでは12試合登板無失点7セーブを記録していたが、李炳圭にソロ本塁打を浴び、中日に追加点を許してしまうこととなった。第3戦の9回表にも2点ビハインドで登板し、再度対戦となった李を三振に討ち取るも巨人は3連敗でクライマックスシリーズ敗退。敗戦後ベンチで号泣した。 入団当初からメジャーへの希望を持ち続けており、2004年〜2005年オフにもポスティング移籍を直訴してきたが、球団がポスティングシステムを認めず。結局来期FA制度を取得することになるが、現在も『ポスティングの12球団統一ルール』の施行を主張している。 ルーキーイヤーの1999年10月5日、上原はヤクルトとの最終戦に登板した。すでに中日の優勝が決まった後の消化試合であり、専らの注目はタイトル争い。両チームに所属する松井秀喜が41本、ロベルト・ペタジーニが42本と、本塁打王を激しく争っていた。上原自身も中日の野口茂樹と最多勝を争い、この試合に20勝目がかかっていた。 この年ペタジーニを無安打に押さえ込んでいた上原は、1・2打席目では勝負して打ち取ることに成功する。しかし、この間松井が一貫して敬遠気味の四球で歩かされ続けたことで、7回裏にペタジーニの3打席目を迎えたところでベンチから敬遠の指令を受ける。指示に従いストレートの四球で歩かせたが、勝負できない悔しさからマウンドの土を蹴り上げ、目に浮かんだ涙をユニフォームの袖で拭っていた。9回の4打席目では再び勝負し適時打を浴びたものの、上原は2失点で完投勝利し20勝目を挙げる。 その話題性とも相まってこの涙はニュース等で大きく取り上げられ、タイトル争い、四球合戦の正当性について議論を巻き起こした。 2000年7月27日、川崎市内で自家用車を運転中にオートバイ運転中の男性をはね、重傷を負わせた。この事故について、球団から厳重注意の上謹慎10日間の処分を受けた。また、業務上過失傷害で書類送検され罰金30万円の略式命令を受けている。 2006年3月23日、東京都内で自家用車を運転中に清掃車に追突。運転中の男性に軽傷を負わせた。業務上過失傷害と道交法違反の疑いで書類送検され、起訴猶予処分となった。 |