市川とは?/ ディック
[ 1100] 市川市 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%82%E5%B7%9D%E5%B8%82
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市川市(いちかわし)は、千葉県の北西部にある人口約47万人の市。千葉市、船橋市、松戸市に次いで千葉県では人口第4位。住民の所得水準が高い住宅都市として知られる 市川市は、旧江戸川をはさんで東京都のすぐ隣で、都心から20km圏内に位置し、首都圏のベッドタウンとして発展している。南部は住宅地としてひらけ、北部の傾斜地等には豊かな自然が斜面林などとして、いまだ残っている。 市の一部は高級住宅地と言われ、東京に近いこともあり過去には永井荷風、幸田露伴(次女の幸田文、孫の青木玉も同居)、北原白秋など数多くの文人が好んで住んだり、市川に関する記述がある作品も多い。これら文人のゆかりの場所を市では「市川文学の散歩道」として残している。また、八幡、菅野、真間地区、市川地区及び新田地区の一部には市の木である黒松も多く静かなたたずまいである。これらの地区は、戦前は東京下町の富豪が別荘を構えたり、戦後も敷地の広い邸宅が多くあった。しかし、近年は、相続等の関係で切り売りされたり、マンションや駐車場に変わってしまい大邸宅も少なくなった。また、車社会となり路地が狭く入り組んでいる等、不都合ともなっている箇所も多い。人口の増加や開発も進み閑静な風情も薄れつつある。 千葉県の北西部にあり、市の西部は旧江戸川を挟んで東京都江戸川区と接している。北部は松戸市、東部は船橋市、鎌ケ谷市と接し、南部は浦安市、東京湾と接する。市の南部は海抜2m程度の平野で、北部は海抜20m程度のなだらかな台地となっている。 市川市は、縄文時代の昔より栄えた地域で、市内には堀の内貝塚、姥山貝塚、曽谷貝塚等多数の貝塚があり、その集中度は国内最大級である。また、市内の真間に手児奈という絶世の美少女がいたという伝説があり、その噂は遠く都にまでとどき万葉集に詠まれるほど有名で、当時は東国(関東)を代表する地域だった。 市川の地に人が住みはじめた歴史は古く、市内北部の台地上には、旧石器時代の遺跡がいくつかある(丸山遺跡、堀の内P地点遺跡、今島田遺跡等)。また、貝塚等縄文時代の遺跡は50箇所にのぼる。さらに、弥生時代の遺跡も何箇所かある(須和田、杉ノ木台、小塚山、宮久保、国府台等)。 市川市の中でも、国府台(こうのだい)より広がる高台は、常に市川一帯の歴史を担って来た。古墳時代には小集落ができた。古墳はこのときはまだない(北根、前原、鳴神山、杉ノ木台)。その後、この高台上に多くの古墳が築かれた。法皇塚古墳(東京医科歯科大構内)、弘法寺古墳(真間山弘法寺敷地内)、明戸古墳(里見公園内)の3基の前方後円墳の他、国府台近辺だけで約30箇所の古墳があったと推定されている。 その後、国府台に律令制により国府が置かれ、下総国の中枢となった。15世紀には太田道灌と里見義堯が国府台城を築城し、二度にわたる国府台合戦の舞台となった。 更に、戊辰戦争の際には、江戸を脱出した大鳥圭介が率いる旧幕府陸軍が、国府台に集結した。これに土方歳三らの新撰組も合流した。1ヶ月ほどで大鳥・土方らは北へ向かったが、その後、別の旧幕府軍と官軍の戦いが、この台地下の市川から船橋にかけて戦われた(市川・船橋戦争)。 幕末、国府台地区は勝海舟によって国会議事堂の選定地として考慮に入れられたこともある(恐らくテームズ川にそった英国の国会議事堂を想定していた推測される)。また、明治初年、大学校(現在の東京大学)をこの地に設置しようという計画があった。さらに明治18年に陸軍教導団の施設が造られた。教導団は明治32年に廃止されたが、その後、陸軍の野砲兵連隊等が置かれ、市川は軍都として栄えた。 終戦後、陸軍の広大な土地は、国立精神・神経センター国府台病院(戦前は陸軍病院だった)、国府台スポーツセンター、東京医科歯科大学、千葉商科大学、和洋女子大学、筑波大学附属聴覚特別支援学校、千葉県立国府台高等学校、市川市立第一中学校の各施設に変わった。 国府台以外の地区についていえば、中山地区は、中山法華経寺の門前町として発展した。行徳地区は成田道の宿場町として、また江戸川水運の中心地として発展した。また、近世における行徳地区の製塩業は有名である。 なお、市名には旧町村名を使用しないこととしたため、候補として「総府市」や「葛南市」、「下総市」、「東葛市」などもあったがなかなか決まらず、業を煮やした市川町代表が縦と横に「市川市」と書き、どこから読んでも市川市でわかりやすいという語呂の良さから、とうとう現市名が選ばれたという話である。ちなみに市役所等市の中枢施設は八幡にある。 市川の名前の由来は、現在の江戸川が当時東国一の川であったことから一の川が訛ったとする説、江戸川の河岸に川舟が集まり定期的に市が開かれていたことに由来するという説の2つが有力である。ちなみに市川の地名が初めて登場するのは義経記。石橋山の戦いで敗れ安房で再起した源頼朝が、軍勢を率いて下総の松戸庄市河に達するという記述がある。 市川市高石神の「上田歯科医院」の元院長。東京歯科大学非常勤講師を務め、千葉県議時代に歯学博士号を取得した。 住民の所得水準が高く住民税や固定資産税が多い[要出典]ため、財政は豊かであり、地方交付税のうち財源不足の自治体に交付される普通交付税の交付を受けていない。 1997年から行政サービス向上の一環として全国初の仕組み、あらかじめ市役所に電話で住民票を申請し、午前中申請なら同日午後4時以降、自分の近所の公共施設や消防署、コンビニエンスストア、市内の商店などで住民票が受け取れる「取次所」を設けている。受け取りの際、認め印と受取人を確認する4桁の暗証番号が必要となる。 個人市民税納税者等が納める税の内、その1%の相当額を自ら任意に希望指名して地域づくりの主体であるボランティア団体やNPOなど、市民の自主的な活動に対してその団体の事業費(運営費を除く)に当てるよう要請することが出来ると言う全国初の1%支援制度(市民活動団体支援制)がある。2005年度に開始され、2007年から3団体まで支援できる団体数を拡大し、納税者以外が地域ポイントも振り当てられるよう条例改正をした。NHKで放送されたEUハンガリー国のパーセント法がヒントとなっている。 人事院勧告に従い、市役所職員採用の年齢・学歴などによる制限を事実上撤廃し、59歳まで出願可能とした。 地方自治法第252条の22第1項に定める政令による中核市になる要件を満たしているが、今のところ中核市にはなっていない。 2007年2月、議会で「政令指定都市検討促進決議」、4月から「4市政令指定都市研究会」を船橋市、松戸市、鎌ヶ谷市と四市で持ち将来の移行を視野に、2年間で課題を研究中だが、合併を前提としたものではなく、市民が合併や政令指定都市を考えるための材料を随時公表するとしている。 市内を南北に貫く東京外環自動車道の建設が計画されており、一部着工されている。市は推進の立場をとっているが、市内の自然や史跡を傷つける、大気を汚染する、市の東西の交通の障害となる、住み慣れた土地をなぜ離れるのか等の理由から、環境保護運動その他いくつかの住民団体による反対運動も長期間にわたり続けられている。用地買収も完全には終わっていない。 本市は東京に近い割りには、樹林の緑、湿地帯などの自然が比較的多く保存されている。これは、市民や在住知識人などの働きかけと、これに応えた市行政の努力によるものである。 2007年現在、JR市川駅南口において再開発事業(市川駅南口地区第一種市街地再開発事業)が行われている。これは1980年に計画が開始された。市川駅南口は、低層建築物が続き、中小の小売店舗が並んでいる地区であった。このため、土地の有効利用が行われておらず、防災上にも問題があった。これらは2004年までに取り壊され、2008年完成を目指して、東地区に1棟(37階建て)、西地区に1棟(45階建て)の計2棟の高層建築物の建設がすすめられている。両地区とも低層階には商業施設および公共施設が入る予定である。東地区の高層階は介護付有料老人ホームのライフ&シニアハウス市川と都市再生機構の賃貸住宅となり、西地区の高層階は野村不動産と三井不動産レジデンシャルが販売する分譲マンションとなる。 2007年11月7日に再開発事業のうち、西地区の分譲マンション「ザ・タワーズ・ウエスト」の工事中に25〜29階の各階12本の外周柱で柱毎に22本必要な鉄筋が2本不足、30階の4本の柱で同様の不足、全体で計128本の鉄筋不足が明らかとなった。清水建設は施行ミスを認め補修工事を施し強度不足を解消する。販売会社が施行ミスを知った後も、説明せずに販売したことも指摘された。[1]、三社連名による「お詫び」 2007年12月25日-28日 - 25日、鉄筋不足をうけて、12月初めから事業主である市川市は清水建設などの建築会社への工期が遅れた場合の損害賠償を、また分譲マンション購入予定者の不安解消のための訴訟などに対する誠意ある対応や瑕疵(かし)担保責任の通例の10年間を超える期間延長を今後協議すると野村不動産と三井不動産レジデンシャルに求めていたが相互にその確認書が交わされ、27日市議会に報告された。また鉄筋を設計どおりに戻す補修工事の計画が、28日国土交通省に認められ、補修工事は2008年2月にも始まる見通しとなった。[2] 市川市民納涼花火大会、1985年から毎年7月下旬から8月上旬に江戸川河川敷で開催される。同一の大会を対岸の東京都江戸川区では「江戸川区花火大会」と呼ぶ。 市歌の詞に描かれた風景と実情が時代とともに変化してきたことから、1999年に市川賛歌制作市民委員会の要請により作曲された。 作詞家・作曲家とも日本を代表する重鎮だが、詞中にある言葉のユニークさ[3]から2ちゃんねるをはじめとする一部のネットコミュニティで爆発的に受け、同じ顔ぶれの作詞作曲による福島県立清陵情報高等学校校歌とともに有名となった。 東京市浅草区(現 東京都台東区)生まれ。市川市内の養護施設「八幡学園」でちぎり絵と出会い才能を開花させる。 ニッケコルトンプラザ - 日本毛織の工場跡地にあるショッピングモール。「ニッケ鎮守の杜」の「おりひめ神社」が残る。 市川市指定のごみ収集袋や、ごみ収集車には、魔法使いの男の子と女の子がほうきに2人乗りしている姿が描かれている。2人の名前はキラリン、ピカリンという。 京成自動車工業 - 特殊車両の設計・製造をする企業。TV局放送中継車の製造を行っている事でも有名。京成電鉄グループ。 この「市川市」は日本の市区町村に関連した書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正などして下さる協力者を求めています(P:日本の都道府県/PJ日本の市町村)。 |