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日活とは?/ ディック

[ 674] 日活 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%B4%BB

本社は東京都文京区本郷3-28-12。調布市に日活撮影所を有する。また、この日活撮影所内には日活芸術学院という映画学校がある。ミニシアターのシネ・リーブル池袋、シネ・リーブル梅田、シネ・リーブル神戸(三宮)、シネ・リーブル博多駅(福岡県)を所有し、千葉県印西市にシネマコンプレックスのシネリーブル千葉ニュータウンを、成人映画上映映画館としてシネロマン池袋、ロッポニカ高松、の2館を所有する。 また、スカイパーフェクTV!やケーブルテレビ局向けにチャンネルNECO、レインボーチャンネル、CINEMA-Rを放送している。
1912年(大正元年)、国家当局の要請を受け、当時の横田商会ほか国産映画会社四商社が合併して創立。尾上松之助主演の映画でその名を知られる。大河内傳次郎、片岡千恵蔵、阪東妻三郎、入江たか子らも活躍し戦前は時代劇の名門映画会社だったが、昭和初期より業績が下降し、経営権を巡る争奪戦が勃発。東宝・松竹両社の関連会社となっていた。さらに1942年には戦時企業統合により、製作部門は大映(大日本映画製作株式会社)に吸収され、映画製作から一旦撤退。
戦中戦後は映画興行および配給で凌ぐが、1954年に活動再開した後は月丘夢路、水島道太郎、三橋達也、南田洋子、北原三枝、芦川いづみら他社のスターを引き抜いて文芸映画を製作。新人として名和宏、長門裕之らを登用。石原慎太郎原作の太陽族映画が当たると石原裕次郎、小林旭、浅丘ルリ子、待田京介、赤木圭一郎、宍戸錠、二谷英明、岡田真澄、川地民夫、和田浩治らを起用した若者向けの低予算のアクション映画中心の会社に路線変更した。興行収益が好調な上に事業多角化を推進したため、業績は堅調であった。
しかし、本格的なテレビ時代の到来と日本の映画産業全体の斜陽化のあおりを受けた上に、北原三枝と芦川いづみの引退、赤木圭一郎の急逝、アクション映画のマンネリ化、企画不足、石原裕次郎&小林旭の二大スターの肥満等による人気低下、堀久作社長のワンマン体質からくる過剰な不動産投資、それに反発した江守専務ら映画製作の中枢者を強引に退陣させる等(1967年)、放漫経営などが次々に災いして1960年代半ばから業績は急激に悪化。その1960年代には吉永小百合、浜田光夫、高橋英樹、渡哲也、山本陽子、和泉雅子、松原智恵子、梶芽衣子、藤竜也、杉良太郎といった新人スター達も生み出したが、退潮を食い止めることは出来ず、丸の内日活、新宿日活、梅田日活など主要劇場を次々と売却。1965年には『殺人狂時代』が企画されるが、未制作となり。そのままこの企画書は東宝に引き渡された。1969年には撮影所を、1970年には日比谷の本社ビルをも明け渡した後、同じ不採算で同根の大映と配給部門を合体して「ダイニチ映配」を設立する。しかし、この弱者連合はすぐに行き詰まり、翌年には堀久作社長が退陣。息子の堀雅彦が社長に就任し、『戦争と人間』のヒットを背景にした「フリーブッキング大作路線」を標榜するが、実はダイニチ離脱、映画製作中止をしたいのが本心だった。
1971年夏、大映と袂を分かった後は一時製作を中断。組合との協議により、秋からは採算面から低予算の「日活ロマンポルノ」をスタートさせる。これにより、石原・小林・渡・宍戸・吉永らこれまでの上記の日活映画スター達は事実上フリーになった。
1975年に社長の堀雅彦が経営不振で辞任し(副社長の村上覚が社長に就任)、これによって、戦前より会社経営を担ってきた堀一族が退陣。代わって、日活労働組合(共産党系)出身の根本悌二が台頭し、1979年には根本が社長に就任し、以後、役員すべてを労組幹部出身者で固めた布陣で経営が行われる事となる。
1978年7月、資本金を上回る累積赤字のため、日活株は東京証券取引所の一部上場を外されそうになる。そこで同社は、当時安売り紳士服チェーンとして一世を風靡していた「流通卸センター」(ROC)と提携。同社の系列会社などに第三者割当増資を行うなどして資本金を縮小。借金完済に成功し、難局を乗り切った。その余勢で同年9月には調布の撮影所を買戻し、それを機に社名を株式会社にっかつと改称する(ただしにっかつの名前がスクリーンに登場するのは1979年以降)。
ビデオデッキが普及した1980年代後半には成人映画の劇場に足を運ぶ人は減る一方となり、にっかつはポルノに見切りを付け、1988年7月1日、にっかつ上映館を「ロッポニカ」に改名し、配給会社を「シネ・ロッポニカ」に変更した上で「ロッポニカ」レーベルで一般向け映画の製作・配給を再開するが、不入りで半年で打ち切られる。また、ケーブルテレビ(CATV)のコンテンツ・チャンネルNECOを設立したが、バブル景気に乗じて過剰投資に走りすぎ、バブル崩壊後経営状況は悪化の一途をたどる。なお、「ロッポニカ」の名称は当時六本木に本社があったことに由来している。現在、日活直営館で「ロッポニカ」の名が残るのは高松市の成人館のみである。
1993年会社更生法を申請し事実上倒産。ゲーム会社のナムコが支援するようになったのをきっかけに社名を元の日活株式会社に戻しナムコの子会社となった(社長の中村雅哉はナムコ会長と兼任)。
2005年4月21日、ナムコが日活株式のUSENへの譲渡を検討していることを発表するが、USENの企業体質に対して日活労働組合が難色を示し、USENは買収を断念する。その後同年9月7日にインデックスがナムコ保有の日活株式の取得を発表、インデックスが労働条件の維持を表明し日活労働組合も同意した事により、9月中にインデックスグループ傘下の子会社となった。同年11月1日をもってインデックスの会長・落合正美が日活会長に、ナムコの中村雅哉は非常勤の名誉顧問になった。社長には徳間グループ傘下だった頃の大映から譲渡合併後の角川大映映画(現角川映画)に転じ制作担当の取締役であった佐藤直樹が迎えられた。
1912年 「まだ未成熟な映画産業活性化」を標榜した国家当局のお達しにより、梅屋庄吉のエム・パテー商会、横田商会、福宝堂、吉沢商会の4社が合併し日本活動写真株式会社(日活)が誕生。
当時の日活の看板俳優であり、国民的スター・尾上松之助が心臓病のため死去。享年52。社葬が執り行われる。
浅草公園六区の根岸興行部の残党である根岸寛一が多摩川撮影所の所長に就任。シナリオライターの八木保太郎の根岸評は「根岸は新聞記者崩れで、文士崩れで、興行師くずれで崩れてばっかりだけど、人使いはうまかった」という。
東京有楽町の日本劇場(日劇)を直営するが、失敗し撤退。この一件で大株主の福田英助(都新聞社主)が経営陣に突きつけた経営責任を巡り社内は紛糾。横田社長が辞任。
1935年 松方乙彦が社長に就任。同時に山王ホテル社長の堀久作を常務に就任させ、経営再建に乗り出す。
この一件で堀が推し進めていた東宝との提携は無効となる。大株主の福田一派の告発によるものだが、松竹はこれに乗じて堀の資金源であった千葉銀行より日活債権の買取へ動く。
逮捕後程なく、松竹が日活分裂のために元日活京都撮影所長の永田雅一に出資していたダミー会社の第一映画社が解散。永田は同じく松竹系の新興キネマ京都撮影所所長に就任。
経営陣はこうした松竹、東宝の動きに対し中立的な立場から大阪の興行主・森田佐吉を社長に、東京の興行主・大蔵貢を常務に据えた。しかしながら、大蔵が松竹と通じていたため利益相反行為で問題となる。
1938年 債権者と和議が成立。これにより東宝・松竹両社による日活株式争奪戦に発展。森田は暴力団を連れて多摩川で根岸所長の排斥へ動く(森田は野田卯太郎ら大物をバックにつけた右翼団体の幹部でもある)。根岸寛一は職を辞しマキノ満男と満映へ移籍(根岸・マキノは戦後に東宝、松竹、大映と対抗する第四系統の東映に満映から人材を送り込む)。
1947年 東宝・松竹両社が所有していた日活株式が経営陣に譲渡され、両属状態から開放。独立会社となる。
1952年 新東宝の社長佐生正三郎の要請を受け、経営難に陥っていた同社の株式を購入。同社の救済合併を画策し、映画製作復活を目指す。
1964年 基幹劇場であった丸の内日活劇場を三菱地所に売却(現・新有楽町ビルヂング北東角)。日活ホテルの総料理長である馬場久が東京オリンピック男子選手村の料理長に就任する。女子選手村が帝国ホテルの村上信夫。
1965年 配収大幅減で東宝、東映に次ぐ業界3位に転落。 映画『黒い雪』(監督・武智鉄二)が摘発され、裁判沙汰に。製作再開時からの山崎辰夫撮影所長を更迭(後任は山根啓司製作部長が就任)。堀久作の実子・堀雅彦が入社。
1967年製作再開以来の映画担当重役だった、江守清寿郎専務、山根啓司撮影所長、石神清宣伝部長らが総退陣。後任は堀雅彦副社長が映画担当に、配給部長だった村上覚が撮影所長に就任。この騒動で現場も混乱。業績も急激に悪化の一途を辿る。
1969年 日活国際会館を三菱地所に、日活撮影所を電気通信共済会にそれぞれ売却。業績不振で深刻な局面に突入する。業界最下位に転落。
堀雅彦社長、ボウリング事業の拡大策が裏目に出た経営責任を取って辞任。堀一族は退陣し、江ノ島水族館を分離する。後任社長は村上覚。
1977年黒澤満撮影所長ら一派が日活から東映に引き抜かれ、東映芸能ビデオ(のちのセントラルアーツ)を設立。
東証一部上場廃止を回避すべく増減資を行う一方、株式会社流通卸センター(ROC)との提携話等で一連の株価操作を行い、問題となる。
1979年 日活撮影所を電気通信共済会から買い戻す和解が成立。日活労組委員長だった根本悌二が社長に就任。
1992年 にっかつ80周年記念超大作『落陽』制作。巨額の制作費にかかわらず記録的な不入りで、にっかつ倒産のトリガーともなったと言われる。
1996年 事業管財人の中村雅哉が社長に就任。名実共にナムコグループ入りする。社名を日活株式会社に戻す。
2005年 ナムコ保有の日活株式が一部を除き売却され、インデックスグループに入る。その後スカイパーフェクト・コミュニケーションズが発行済株式の15%をインデックスから取得、スカパーの出資を受けることとなる。
2007年 同じインデックスグループにあった映画配給会社メディア・スーツを日活の子会社化後吸収合併。

 

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