野口とは?/ ディック
[ 1171] 野口英世 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E5%8F%A3%E8%8B%B1%E4%B8%96
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黄熱病や梅毒等の研究で知られる。また、コッホから始まる細菌学的医学権威の最後の一人ともいわれる。ガーナのアクラで黄熱病原を研究中に自身も感染して51歳で死去。 趣味は、浪花節、将棋、油絵であった。アメリカ合衆国シャンデイケンに野口の設計した別荘があり、ここで油絵の多くは描かれた。 ロックフェラー大学の図書館入り口の左右には、ロックフェラー1世と、野口英世の胸像が対になって並んでいる。東京の科学博物館前にも銅像がある。 明治26年(1893年)、猪苗代高等小学校卒業後、上京。歯科医であり高山歯科医学院(現東京歯科大学)創立者の一人血脇守之助による月額15円の援助を受け、東京の芝伊皿子坂上の同学院で雑用をしながら済生学舎(日本医科大学)で医学を学ぶ。 明治31年(1898年)、北里伝染病研究所に勤め始める。研究所には御多聞に漏れず東京帝国大学医学部の学閥が存在した(冷遇説があるが、北里柴三郎は以後も野口に対して便宜を図っており、また野口も米国より北里に多くの論文を送っていることからこれに疑問を抱く意見もある)。また来日していたサイモン・フレクスナーの案内役を務めていた際、フレクスナーに自分の渡米留学の可能性を打診、フレクスナーは半分社交辞令で応じる。 同年、坪内逍遥の流行小説「当世書生気質」を読み、自堕落な生活を送る主人公「野々口精作」と自分の名「野口清作」と遊郭等での放蕩経験が極めて近いことに気づき改名をする。本来戸籍名の変更は困難であるが、清作という人物に頼み込み自分の戸籍上の集落の野口家に養子に入って貰い、その上で「同一集落に野口清作が二人居るのは紛らわしい」と主張するという手段で戸籍名を「野口英世」と改名することに成功する。「当世書生気質」が発刊されたのは野口が9才であった明治18年(1885年)であるし「野口英世をモデルにしたのではない」という坪内の言葉が文献に記されている。また坪内は後に「キング」誌のエッセイに「自分の小説が野口英世の奮起の動機になったことを光栄」との旨を記した。 明治32年(1899年)、横浜海港検疫所検疫官補となる。横浜港に入港したあめりか丸でペスト患者を発見診断した。このペストの日本上陸を防いだ業績から清国でのペスト対策としての国際防疫班に選ばれる。 明治33年(1900年)、北里柴三郎の紹介状を伝に(北里は渡米時に幾通も野口の紹介状を書いており、北里に対する野口の礼状が現存する)フレクスナーのもとペンシルバニア大学で助手の職を得て、蛇毒の研究を始める。 明治44年(1911年)8月、「梅毒スピロヘータの純粋培養に成功」と発表。一躍、世界の医学界に名前を知られることになった(梅毒スピロヘータの培地による純粋培養については追試に成功したものがいないので否定的な意見がある)。同年、京都帝国大学病理学教室に論文を提出、京都大学医学博士の学位を授与される。 大正2年(1913年)、梅毒スピロヘータを進行性麻痺・脊髄癆の患者の脳病理組織内において確認し、この病気が梅毒の進行した形であることを証明する。これは、生理疾患と精神疾患の同質性を初めて示した画期的なものであった。小児麻痺の病原体特定、狂犬病の病原体特定(但し、後年小児麻痺、狂犬病の病原体特定は否定されている)などの成果を発表。 大正3年(1914年)に東京大学より理学博士の学位を授与される。この年の7月にロックフェラー医学研究所正員に昇進する。この年のノーベル医学賞候補となった。 大正4年(1915年)9月5日、15年振りに日本に帰国。帝国学士院より恩賜賞を授けられる。横浜港には、たくさんの人が出て、野口を出迎えた。世間では、野口フィーバーとも呼べる歓待で、日本各地の講演会にひっきりなしに呼ばれることになる。以後、帰国することはなかった。2度目のノーベル医学賞候補となる。 大正7年(1918年)、ロックフェラー財団の意向を受けて、まだワクチンのなかった黄熱病の病原菌発見のため、当時、黄熱病が大流行していたエクアドルへ派遣される。当時、開通したばかりのパナマ運河周辺で、船員が黄熱病に感染する恐れがあったため、事態は急を要していた。エクアドルに到着後、9日後(日数については諸説あり)には、黄熱病と思われる病原体を特定することに成功(この病原体は、今日ではワイル病スピロヘータであったと考えられている)。この結果をもとに開発された野口ワクチンにより、南米での黄熱病が収束したとされる。この成果により、野口はエクアドル軍の名誉大佐に任命されている。さらに、3度目のノーベル医学賞の候補に名前が挙がる。 昭和2年(1927年)、トラコーマ病原体を発表する(ただし後年否定された)。イギリスの医学者で、西アフリカの黄熱病を研究していたストークスが、野口ワクチンはアフリカでの黄熱病に効果がないという論文を発表する。ストークス自身も黄熱病で死亡。野口はアフリカ行きを決断する。そしてこの年の10月にアフリカへ黄熱病研究のため出張する。 昭和3年(1928年)、アフリカガーナのアクラに研究施設を建築。アカゲザルを用いた病原体特定を開始する。しかしまもなく自身が黄熱病に感染、5月21日、アクラの病室で死亡。野口英世は「私には分からない」という言葉を口ずさみ、51年の生涯を閉じた。この年の6月15日、アメリカのニューヨークのウッドローン墓地に埋葬される。 細菌学の権威として著名な野口英世であるが、医学研究としては、徹底的な実験による実践派であった。気の遠くなるような実験パターンを全て実行してデータ収集を行っていた。アメリカでは、実験マシーンなどと揶揄されたり、日本人は睡眠を取らないなどと誤解されたりもした。下記にあるように現在でも評価が高い研究は顕微鏡観察による病理学・血清学的研究である。 細菌学の分野ではないが、現在でも評価される業績としてはヘビ毒によって引き起こされた溶血性変化に関するもので血管の内皮にもたらされた傷害により出血と浮腫が引き起こされる機構について最初の病理学的な詳細な記述をした。これは、その後のガラガラヘビ蛇毒の血清をヤギで作製することの基礎研究につながった。 細菌学の分野では梅毒スピロヘータを運動失調症、関節障害に至る末期神経梅毒患者(脊髄ろう)の脳標本で発見したことが著名である(抗生剤の大量投与が必要であり多発性硬化症、脊髄変性症との鑑別が重要である)。当時の顕微鏡で数万枚にもおよぶ病理組織標本の観察により確認に至ったもので神経性疾患と感染症との関連を明らかにした最初期の業績として評価が特に高い。1920年代、精神科病棟での入院患者の半数が第3期以降の梅毒患者であり、その原因を明らかにしたことが評価される。ほかツェツェバエにより媒介されるペルー疣(四肢に数センチに達するいぼができる)と溶血性貧血による重篤な症状をきたすオロヤ熱が同じバルトネラ症であることの発見(1926−1928年サイエンス誌数編)、血清学的ヘルペドモナドHERPETOMONADS とリーシュマニア LEISHMANIAS の分類(1926年サイエンス誌)などがある。 ただし細菌学の分野で野口を世界的に有名にした、梅毒スピロヘータ純粋培養による病原体特定は現代に措いても追試に成功した者がおらず、梅毒に限らずスピロヘータの培地培養は補酵素の要求が非常に難しいことがわかっており、当時使用された培地での培養は考え難いため、現代では完全な純粋培養に成功したという点は否定されている(生体組織を混入することによる感染培養は当時でも可能である)。 また急性灰白髄炎(小児麻痺)病原体、狂犬病病原体、黄熱病病原体等の発見特定の発見業績に関しては、その後ウイルスが病原体であることが判明していることから否定されており、発表された200余の論文に関して、現代において微生物学の分野で評価できるものは限られる。 1970年代、小学生向けの野口英世に関する書籍が多く発刊された為、その後、医師を目指すものが多くなったとも言われている。 2004年9月13日、野口英世の出身地に因んで、福島県耶麻郡猪苗代町の翁島郵便局が野口英世の里郵便局と改称された。 野口英世アフリカ賞 - 2008年に日本で開催されるアフリカ開発会議で表彰される賞。医学者が主な受賞対象となる予定。 |
[ 1172] 野口みずき - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E5%8F%A3%E3%81%BF%E3%81%9A%E3%81%8D
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1997年にワコールに入社したが翌年10月、会社と対立した藤田信之監督が、真木和ら少数の選手を連れて辞任すると、野口もこれに従った。一時は失業給付を受けながら現役を続行した。 2002年3月、初のフルマラソンとなった名古屋国際女子マラソンでは、中盤の25Km過ぎで2位の大南博美、3位の田中(現.大島)めぐみらを引き離して独走、初優勝を飾る。しかし気温が20度近くと高かった為、記録は2時間25分台に終わり、当時渋井陽子の持つ初マラソン世界最高記録には届かなかった。 同年8月の世界選手権パリ大会では、中盤までハム・ボンシル(北朝鮮)にピッタリとマークされ、何度も手足がぶつかるアクシデントに見舞われた。レース後半30Km過ぎにキャサリン・ヌデレバ(ケニア)がスパートすると、野口ほか日本選手達は全くついていけず、徐々に引き離された。ゴール直前では野口が少しずつ追い上げたが届かずヌデレバが優勝。しかし野口が日本女子トップの2位に入り銀メダルを獲得したため、翌2004年のアテネ五輪の代表に内定した。千葉は3位に入り銅メダル獲得、坂本は4位入賞。奇しくも同年1月の大阪国際女子マラソンの上位3選手が、そのまま2・3・4位となった。 2004年8月22日(日本時間23日)、アテネ五輪の女子マラソンは、気温30度を超える酷暑の中でのレースとなった。25Km付近で野口がロングスパートを仕掛けると、優勝候補の世界記録保持者ポーラ・ラドクリフやヌデレバらの強豪選手達が遅れ始めた。28Km過ぎではただ一人ついていたエルフェネッシュ・アレム(エチオピア)もついていけずに後退し、野口の独走となった。後半の32Km辺りからゴールまで約10Km続く下り坂に入ると、一旦遅れたヌデレバが追い上げて2位に上がり、ゴールに向け野口との距離を詰めるが、12秒の差で野口が逃げ切って優勝。シドニーオリンピックの高橋尚子に続き、日本に2大会連続のオリンピック女子マラソン金メダルをもたらした。記録は2時間26分20秒。(土佐礼子は5位、坂本直子も7位で、日本勢は3選手とも入賞を果たした。) 2005年9月25日、ベルリンマラソンで2時間19分12秒の大会新記録を出して優勝すると同時に、孫英傑(中国)が持っていたアジア記録、渋井陽子が2004年のベルリンマラソンで出していた日本記録をともに更新した(ラドクリフ、ヌデレバの記録に次ぐ世界第三位)。この記録は「走った距離は裏切らない」という言葉を胸に、毎日約40kmのランニング練習をこなしている成果である。 所属するグローバリーの不祥事により陸上部が廃部されたため、2005年12月にシスメックスに移籍した。移籍後初の大会となった2006年2月5日の第60回香川丸亀ハーフマラソンでは、自己の日本記録を上回るタイムを出しながらも、福士加代子に敗れて2位。同年7月9日の札幌国際ハーフマラソンでは、中盤まで大南博美とデッドヒートを繰り広げたが、その後引き離して終盤は独走、大会新記録で優勝を果たしている。 2006年9月24日のベルリンマラソンへ出場を予定していたが、練習中に左足首の故障が発生した為に断念。その後故障は一旦回復し、11月26日の上海国際ハーフマラソンでは大会新記録で優勝、翌2007年1月6日の宮崎女子ロードレースのハーフマラソンの部も制している。しかし、好記録が期待された同年4月のロンドンマラソンに出走予定も、左足首(アキレス腱)の故障が再発、又もフルマラソンを回避する事となる。 2007年5月13日、4か月ぶりのレースとなった仙台国際ハーフマラソンでは、1時間8分台で優勝。競う相手がいなかった点を考慮すれば,上々の復活レースであった。同年7月の札幌国際ハーフマラソンも制し、2連覇を達成。 翌2008年北京オリンピックの女子マラソン代表選考レースである、2007年11月18日開催の東京国際女子マラソンにエントリー、2年2か月ぶりのフルマラソン出走となった。野口と同期生で前日本記録保持者の渋井陽子との一騎打ちが予想されたが、レース後半の30Km手前で渋井を引き離し、35Kmから40Kmまで続く5Kmの急な上り坂を過去最速となる初の16分台のラップタイムで通過するなど、圧倒的な強さでこの難コースを完璧に攻略。東京国際女子マラソンとしても大会新記録・大会初優勝を飾った。またこの優勝により、日本選手として史上初めて東京・大阪・名古屋の国内三大女子マラソンを完全制覇する大快挙を達成した(海外選手では先にドイツのカトリン・ドーレが制覇している)。 2008年3月10日、北京五輪女子マラソンへ正式に代表入りを果たし、2大会連続の五輪出場を決めた(他代表選手は土佐礼子、中村友梨香)。前回アテネ五輪のディフェンディングチャンピオンとして、女子マラソンで史上初めて五輪2連覇なるかどうかが注目を集めることになる。 バルセロナオリンピックとアトランタオリンピックの代表選手だった真木和(現姓.山岡)に憧れてワコールに入社。現在の真木は既に現役引退、結婚して一児の母となったが、今でも時折真木は野口の出走するレースの応援に駆けつける事が有る。 2004年の第55回NHK紅白歌合戦では特別審査員として出演。(一青窈が「ハナミズキ」を歌うさい、紅組司会の小野文惠アナウンサーは曲紹介で、野口の名前の由来である事については一言も述べなかったが、間奏部分では画面に野口のアップが映された。) 野口みずきクロカンコース:国内練習拠点として使用する菅平高原クロスカントリーコース(長野県上田市)[1] |