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鈴木とは?/ ディック

[ 866] 鈴木隆行 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E9%9A%86%E8%A1%8C

この項目では横浜F・マリノス所属のサッカー選手について記述しています。同じ読みで元東京ガスの選手については鈴木敬之を、元プロ野球選手については鈴木孝行を、建築家、小説家については鈴木隆之をご覧ください。
鈴木 隆行(すずき たかゆき、1976年6月5日 - )は、茨城県日立市出身のサッカー選手。 ポジションはフォワード。鹿島アントラーズに入団したが、ジェフユナイテッド市原、川崎フロンターレなどレンタル移籍を繰り返す。フィジカルの強さと強靱な精神力に支えられた献身的プレーが持ち味。日本人FWとしては異色のFWとの評価もなされる。
しかしその後はトップチームでの出場機会に恵まれず、1997年3月〜9月、ブラジルのリオ州3部リーグに新設された、ジーコが出資し自ら会長を務めるクラブ、CFZ・ド・リオへとレンタル移籍する。ここで21試合7得点の成績を挙げ、チームの州2部昇格に貢献しジーコの期待に応えた。
レンタル期間終了後は鹿島へと復帰し背番号9を与えられたものの、1998年度シーズンの途中、ジェフ市原へ期限付き移籍。J1参入決定戦のアビスパ福岡との試合で貴重なゴールを決め、市原のJ1残留に貢献した。
1999年、再びリオ州2部のCFZ・ド・リオへレンタル移籍し、2月〜9月の間で5試合に出場するも無得点に終わり、秋に鹿島に復帰。ナビスコカップ準決勝第1戦と第2戦、長谷川祥之とのツートップで、スタメン出場を果たす。柏レイソルとの決勝戦では、途中出場で初の決勝の舞台に立つが、PK戦では2番目のキッカーを務めるも失敗、優勝を逃した。
2000年、川崎フロンターレにレンタル移籍。リーグ戦11試合に起用されていたものの無得点、チームも勝てなかった。そんな中行われたミーティングで松本育夫社長が選手に意見を求め、そこで鈴木はチーム内で溜まっていた不満を代弁したが、それ以降出場機会がなくなった。 結局シーズン途中鹿島に復帰し、リーグ5試合で2得点、ナビスコ杯5試合で3得点、天皇杯5試合で2得点。復帰後の15試合で7得点を挙げ、一気にレギュラーに定着、鹿島の「三冠」に貢献した。ナビスコカップではその活躍により、ニューヒーロー賞に選ばれた。
2001年、日本代表に初召集される。4月25日のスペイン戦にて途中出場し、代表デビュー。日本で開かれたFIFAコンフェデレーションズカップのカメルーン戦では、トルシエ監督から初スタメンに抜擢され、2得点を挙げる結果を残し、マスコミなどからシンデレラボーイと呼ばれた。トルシエは鈴木の抜擢を「(鈴木の)目で決めた」と述べ(なお、トルシエは後年「本当は(アフリカ系選手に対するために)鈴木のフィジカルコンタクトの強さを買って起用した」とも明かしていた)、本人も試合直前まで知らされていなかったという。次のオーストラリア戦では肘打ちをしたと見なされ一発退場になってしまうが、この大会以降、鈴木は代表に定着。
2002年、トルシエからは献身的なプレーが認められ、FIFAワールドカップのメンバーに選出。初戦・ベルギー戦、日本の初得点を挙げる。貴重な同点ゴールであった。W杯終了後、その活躍が対戦国のベルギーで認められ、ベルギー1部リーグの名門・ヘンクに移籍する。しかし、センターフォワードではなく右サイドのウィング的ポジションで起用されることがほとんどであり、リーグ戦やUEFAチャンピオンズリーグでアシストを記録するなどしたものの、FWのレギュラーを奪えずノーゴールに終わる。
2003年、ヘンクと選手の提携を結んでいるヒュースデン・ゾルダー(本拠はゾルダーだが、キャパシティーの問題から近隣の街・ゲンクのスタジアムを使用している)に移籍。チームは1年で2部リーグに降格したものの、本来のセンターフォワードでまずまずのプレーをしリーグ戦5得点を挙げた。
2005年、最終予選では3試合先発するも右足首の怪我に泣き、ノーゴールに終わった。代表内でストライカー待望論が高まるにつれ、チームの決定力不足の戦犯的扱いを受ける事もあった。Jリーグでは小笠原満男に代わり鹿島の選手会長を務め、リーグ戦では25試合に出場、3得点を挙げた。
2006年1月末に、セルビアの強豪チームレッドスター・ベオグラードに完全移籍。4月の国内カップ戦の準決勝ではアウエーでのラドニチュキ・ニシュ戦で初の先発フル出場、移籍後の公式初得点を含む2得点を挙げ、日本人選手として初めてのリーグ得点者となった。ドイツW杯の日本代表最終メンバーには選出されなかった。7月に入り、レッドスターのバイエビッチ監督の構想から外れ、出場機会が激減。
2007年1月19日、横浜F・マリノスが完全移籍での獲得を正式発表した。周囲からは横浜FCに移籍した久保竜彦の穴を埋める事を期待されていたが、その穴を埋める事は出来ず、開幕から数試合は出場したものの、その後は試合出場はおろか、ベンチメンバー入りすらできない不本意なシーズンとなった。12月1日、横浜マリノスより戦力外通告を受ける。その後、東京ヴェルディからオファーがあったものの、条件面で折り合いがつかずに決裂。
前線でポストプレーをこなすことを得意とする。何度ファウルで倒されても立ち上がる強靱さや、球際において決して諦めない姿勢、前線から相手ボールホルダーを執念深くチェイスする勤勉なプレースタイルは特に高く評価されている。その姿勢を支える豊富な運動量は、鹿島時代にトニーニョ・セレーゾ監督に仕込まれたという。中盤や、時には最終ラインにまで下がってプレーする事も少なくなかった。鈴木本人も「憧れた選手はいません。でも中山さんのプレーには惹かれるものがあります」と、同じように泥臭いプレースタイルを信条とする選手に対するシンパシーをサッカーマガジン誌でのインタビューで述べたことがある。
それを象徴するのが、2002年のFIFAワールドカップ初戦ベルギー戦のゴールである。先制されて劣勢の中、小野伸二からのロングフィードを、伸ばした右足つま先で押し込み、ワールドカップ日本初の勝ち点獲得に貢献した。同大会においてFW登録で得点を挙げた唯一の日本代表選手となった。2004年のAFCアジアカップにおいても、鈴木の被ファウルから得たフリーキックの好機から、中村俊輔がゴールを狙うという得点パターンは日本の武器であった。
前述のスタイルからも推察されるように、テクニックよりフィジカル面を重視して戦い抜いてきた選手であり、それは本人も認めるところであったが、ヘンクに入団すると監督から基本プレーを重点的に鍛えられた。主に右サイドで使われ日本では見られなかったプレーが生まれ、ファウルを誘うようなプレーだけではなく楔の動きの質や前線でのキープ力にも磨きを掛けている。ゾルダー在籍時には個人技によるドリブルからの中央突破でゴールを挙げた事もあった。
柳沢敦とは共にハワイで自主トレをしたり、ディズニーランドへ行ったりするほど仲がいい。鈴木と柳沢がスタメンで日本代表のツートップを組むと負けた事が無かったとして、ファンの中にはこれを日本代表の不敗神話と呼ぶ者もいる。これに対して、共に自らゴールを量産するタイプではなく決定力に課題があるとされることから、槍玉に挙げられることも多く、評価は分かれている。
トルシエはこの時、「彼はここ半年の間1点も取っていませんが、点を取らなかったとしても彼は存在感だけで相手にプレッシャーを与え、非常に攻撃的。チームにとっても攻撃的な姿勢につながる。」と鈴木の実名は挙げなかったが、発言内容からして鈴木隆行の事を指していると思われる。
長期に渡って得点を挙げる事が出来ず(2002〜2003年に公式戦46試合、出場分数にして1790分間ノーゴール。ただし、MFとしてのプレー時間が多く含まれている)、得点力を欠くとの印象が強いことから、サッカーファンのネット上での書き込み等で「ノーゴール師匠」と揶揄された。これより転じて、単に「師匠」と呼ばれることも多い。 また、その守備的なプレースタイルからDFW(ディフェンシブ・フォワード)と呼ばれる事もある。

 

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